松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

雲大社よりずっと古い神魂(かもす)神社はパワースポット!

2015年07月03日 14:18   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今回は、出雲大社よりずっと古い神魂(かもす)神社の紹介をします。
松江市民の中では、通称"大庭の大宮さん"の名で親しまれている神社です。
前述しました古代出雲の国鳥があった中心地近くの「八雲立つ風土記の丘」資料館から徒歩約10分でこの社に着きます。
松江市の中心地から東南方向に路線バスで約20分、丘陵地に広がる古社が鎮座する松江市大庭(おおば)待ちがあります。
この「大庭」という地名は神様の祭りごとをする場所のことだそうです。その大庭町に神の魂の神社と書いて神魂(かもす)神社と呼ぶ非常に古い社があります。
「カモス」と読むのは珍しいですが、一説によると、神霊の鎮まり坐す所の「神坐所」(かみますどころ)がカンマスになり、さらにカモスとなったと言われています。
イザナミノミコトを主祭神として祭る神社で、現在の島根県東部地方の意宇六社(おうろくしゃ)の一つに数えられている格式の高い神社です。
ちなみに、意宇六社とは、かっての意宇郡(おうのこおり、現在の松江市、安来市)に鎮座する神社のうち、熊野大社、真名井神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社、揖屋神社の6社を指し、この6社を巡礼する事を「六社参り」と呼んでいます。
それでは、前置きはこのあたりで、参拝することにします。
神社の鳥い正面に「神魂神社」と彫った古い碑が建っています。鳥居の先には、ゆっくりとした勾配の石畳の参道が続いています。
御手洗(みたらし)の所で参道は二手に分かれます。そのまま真っ直ぐ進む参道は女坂で傾斜が少ない参道です。しかし、左手の男坂は急勾配の階段を登ります。暑い季節ともなれば、石段の上からスーっと冷気(霊気)が降りて来るのを感じます。男坂の石段を登り切ると、目の前に神社の社殿が聳えています。
緩やかな坂道は、健常者の方はお断りしているそうですので、お気をつけ下さい。
石段を登ると田舎の小学校の校庭位の広さの境内に着きます。境内は、厳かな雰囲気の木々が世間を隔離するように立ち並んでいます。
一見して、歴史的にも価値がありそうな建物で、威圧感があたりに漂よっているのを感じます。あっ、そうそう、本殿は国宝に指定されています。
その他の建築物も重要文化財に指定されています。
何が国宝かというと、この本殿は、天正11年(1583年)に建てられた現存する最古の大社造りなのです。
最初に建立されたのは、古いはずです。この神社を造ったのはアメノホヒモミコト(天穂日命)とされています。オオクニヌシノミコトを出雲大社祭祀するように命じられた、あのアメノホヒノミコトです。アマテラスオオミカミの第二子とされるこの神は、この地に天降ると、出雲の守護神としてイザナミノミコトを祀りました。それがこの神魂神社の始まりであるといわれています。
何が言いたいかというと、出雲大社よりずっと古いということです。神魂神社の大社造は、規模において出雲大社よりはるかに小さいですが、その他に屋根の上の千木(ちぎ)の形態に大きな違いがあります。
その先端の切り口が垂直(外削ぎ)になっている出雲大社に対し,この神魂神社では水平(内削ぎ)にカットされています。
ご祭神が男の神様なのか女の神様なのかで違うそうです。
本殿の向かって左側には貴布祢(きふね)社があります。社殿が小さいのであまり目立ちませんが、桃山時代の建築様式です。ある2間社流れ造りで、国の重要文化財に指定されています。流れ造りそのものが出雲地方では珍しい社殿です。
また、社務所脇には、古い鉄釜が安置されています。その昔、出雲国造の租神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)が高天原から降臨された時乗ってきたと伝えられている釜です。
神様は、UFOの乗り物で下界に降りて来られた訳です。よくよく考えると神様は、色々な超能力(?)を発揮されて国づくりなどをされた訳ですので、もしかしたら、宇宙人だったのかもしれませんね。
神社建築にご興味のあるかたには、必見の神社です。また、伊弉冊大神と伊弉諾大神という夫婦の神が祀られていることから、縁結びを願う人も多いようです。
神魂神社周辺の「六社参り」をすれば両園に出逢う事間違いないと筆者は、考えます。
本殿にお参りをして社を後にすることにします。


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「半夏生」ってご存じでしたか?

2015年06月29日 15:28   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。ここのところ肌寒い日だったり蒸し暑い日だったりして、何とも過ごしにくいこちら松江です。
半夏生(はんげしょう)は雑節の1つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃とされてこの名がついたものと見られます。
一説に、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになる頃とも言われるようです。様々な地方名があるようですが、こちら出雲地方では、「半夏(はんげ)」といいます。
昔からの風習が伝えられている処は多いようです。この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いのです。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言います。
農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、この日から5日間は休みとする地方もあります。
また、この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしたのだそうです。これは、どんな戒めなのかは、筆者には不可解ですが、湿気が多く雑菌が多く繁殖し、伝染病に気をつけなさいということなのでしょうか。
何だか怖い季節のようです。現代では、天気予報もあり、大雨などはある程度は予測されますが、天気予報が外れる確率が多いのもこの時期なのは確かです。
出雲地方では、この時期に特別な食べ物としては、笹巻き(ささまき)を食べるくらいです。夏至から半夏生の間に作ります。中身は、米粉100%で作ったお団子を若葉の笹で包んだものです。食べ方は、お湯でゆがして、ササを取り除き、砂糖醤油や黄粉をつけて食べます。
皆様の処ではいかがでしょうか。
気候の変わり目を昔の人は、きちんと暦に記しています。経験値の積み重ねと言わざるを得ませんね。現代でも、少しは、暦の享受をしたほうがいいかもしれません。



明治維新の危機にも生き残った松江城!

2015年06月23日 11:34   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。梅雨、真っただ中にもかかわらずゲリラ豪雨もなくこのまま適度のお湿りで過ぎてもらいたいものです。
さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。まずは、当時の背景からです。


江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。


松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
もうすぐ正式に国宝となることもこの勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね。



バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会へ参加しました

2015年06月22日 14:02   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンターの川瀬です。
6月19日(金)に沖縄で開催されたバリアフリー観光の全国フォーラムへ参加しました。

バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会

梅雨明けの沖縄は想像以上に暑く、またフォーラムも熱く開催されました。
各地の先進事例の紹介や、山崎 泰広 による「オリンピック・パラリンピックを目指したバリアフリーインバウンドのあり方」など、とても学びの多いフォーラムとなりました。

次回開催は福島です。


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松江城を築城した堀尾氏の菩提所円成寺(えんじょうじ)

2015年06月09日 14:59   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
6月3日に梅雨入り後は、スッキリしない天気が続いていますが、松江城の国宝指定から相変わらず観光客の多いこちら松江市です。
堀川遊覧船などは、満員状態で、船頭さんを追加募集しているくらいです。
前述では、松江藩藩主の松平家の菩提寺であります月照寺をご紹介しましたが、初代松江城築城の堀尾家の菩提寺については、松江市民でも、知る人ぞ知るというイメージがあります。
遅ればせながら今回は、堀尾氏の菩提寺でありますところの円成寺の紹介です。
松江に堀尾吉晴の入城を再現した武者行列のイベントが行われますが、このお寺の墓所ににうちそろってお参りをします。
さて、このお寺は、旧松江市街南端の松江市栄町にあります。松江城から南に宍道湖大橋を渡り国道9号線を跨いだところで、旧国道9号線(昔の街道)沿いにあります。
今現在では、新国道9号線や卸団地が宍道湖を埋め立てて陸地となっていますが、当時は、この円成寺のある小高い山は、岬のように飛び出した地形となっていました。今でいう「夕日スポット」であったのではないかと思わせます。
旧国道からは、正面数十段の石段を登ったところに本堂があり、来待石で造った大石灯篭が迎えてくれます。
本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸があり、奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されています。 
本堂に入って見上げると、梁(はり)の上に飾りがあり、いずれも家紋で、図柄は5種類あります。「家紋で堀尾家の歴史の一端を目で見ることができる。貴重な財産」だということです。ルーツは天皇家ともかかわりがあった可能性もあるといいます。


ここで、堀尾家の家紋で分かる3代の歴史を引用します。
月山富田城(現安来市広瀬町)に入城した吉晴は1611(慶長16)年、松江への移城にあたり富田にあった菩提寺を洗合(現松江市外中原町)に移し、新たに瑞応寺(現天倫寺)を建立して堀尾家の菩提寺にした。
その後、3代・忠晴が亡くなり堀尾家は断絶。京極忠高が藩主になり、1635(寛永12)年、瑞応寺は現在の場所に移るとともに、忠晴の法号にちなんで「鏡湖山円成寺」と改める。
瑞応寺、円成寺ともに開山したのは浜松から吉晴とともに移り、「松江」の命名者ともいわれている春龍(しゅんりゅう)和尚で、円成寺は春龍和尚が別荘として建てた「臨江庵」跡。庭園にある「来待石六地蔵灯籠」は2メートル近くもある立派なもの。400年の風雪に耐え、今でも重厚な姿は往時の面影を残している。
境内の墓地で探し求めた忠晴の墓は、奥の石段を上った先にある。さらに石段を上った先にある祠(ほこら)は、吉晴と親交が厚かった加藤清正の寄進という。古くから火除稲荷(ひよけいなり)として知られ、今でも多くの住民が祈願に訪れる。さらに石段を上ると宍道湖が一望できる眺望が自慢の山頂に出る。
ここからは、五種類の家紋の紹介です。
五七(ごしち)の桐(きり)
3枚の葉の上に3本の枝。中央には7輪、左右には5輪の花がある。一般には「五三の桐」が多い。天皇家に縁がある紋だが、堀尾家とのかかわりは不明という。一説には豊臣秀吉が授かったものともいわれている
抱茗荷(だきみょうが)
堀尾家の先祖・高階家から受け継がれ、堀尾家の中でも当初使用されたといわれる。関ケ原の戦い当時も抱茗荷の紋が使われていたようだ
法馬(ほうま)
丹波・但馬などで多くの功績をあげた堀尾氏が秀吉から賜ったといわれ、戦場での旗印だった。法馬は両替てんびんの重りに使った分銅(ふんどう)のことで一般的には分銅紋と呼ばれる
六目結(むつめゆい)
結いは協力や団結の意味がある。いつから堀尾家の紋になったかは定かではないが、忠晴のころに多く使われたといわれている
寺紋
円成寺の紋は堀尾家の家紋の「分銅」と「六目結」を並べている


松江城の石垣には、石を寄贈した人たちの家紋が数多く刻まれています。その一つ一つを触って見るのも当時の事が偲ばれます。やはり、そ中でも一番多いのは、この分銅紋です。
今度松江城に行かれる機会があれば是非、触ってみて下さい。分銅をイメージして触って見ると三角形の感じに理解出来ます。