松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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どうして雲州力士は江戸時代には強かったの?!

2016年05月31日 11:12   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
プロジェクトゆうあいの玄関に新居を構えたツバメさんの子どもたち3がピーチクパーチクとお腹を空かせていて、親ツバメは忙しそうに餌を運んでいます。
さて、島根県出身の大相撲力士は現在、現役なのは隠岐の海が、80何年ぶりに三役になりましたが、江戸時代には雲州松江藩の力士が番付表の上位を独占していました。
そもそも神様の国出雲は相撲の原点となった神様がおられました。
起源は古く、古事記の国譲り神話に、出雲大社近くの稲佐浜で力比べをした建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が登場しています。日本書紀には、出雲国の野見宿祢(のみのすくね)が、日本一と力自慢をする大和国の當麻蹴速(たいまのけはや)を打ち負かした逸話があり、二つの神話・伝承が相撲の起源とされています。
さらに、江戸時代になると「雲州力士なくして江戸相撲は成り立たなかった」と言われたほど、松江藩の力士たちは大きな存在感を示していました。各藩所属の力士はお抱え力士と呼ばれ、藩主から庶民まで相撲に熱狂しました。
何故、松江藩の力士は強かったのでしょうか?
松江に入府した松平家初代藩主・直政(徳川家康の孫で真田幸村より軍扇をもらった武将)も大の相撲好きだったらしいのです。相撲取りを藩船に乗る水夫の水主(かこ)として召し抱えました。他藩にはない制度でした。要するに、力士を終身雇用の公務員として採用し、水主は現役退役後は後進の指導や新人の発掘も行ったという訳なのです。
当然に当時は力士長屋もあり雷電為右衛門(らいでん ためえもん)が住んでいた場所も当時の住宅地図に載っています。土俵も明記されていました。
7代藩主・治郷(不昧)の時代になると相撲の盛り上がりは最高潮に達しました。享和元(1801)年3月の番付表では大関・雷電為右衛門(らいでんためえもん)をはじめ、雲州力士が西方の上位をすべて占めました。相撲しか娯楽がなかった時代、強い力士は庶民の英雄となり、勝率9割6分、大相撲史上最強の力士といわれました。
今では考えられないようなウソのようなホントの話です。この資料はちゃんと大相撲博物館に残っています。
力士は藩の力を誇示する役目を背負い、広告塔の役割も担っていました。力士はどの藩に属しているのか、一目で分かる図柄を施した化粧まわしをしめました。
その頃の松江藩のは武士、町民を問わず花高々だったことでしょうね。
日本人力士が早く横綱になる日もそう遠くないでしょう!