松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

「仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜」のレポートです

2016年05月24日 14:41   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今回は、大田市仁摩町の仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜のレポートです。
島根ハーネスの会(盲導犬ユーザーとサポーターの会)の総会&交流会が大田市のあすてらすで開催されました。総勢25名、盲導犬10頭です。5月14日には総会・懇親会があり、翌日は、仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜に観光へと向かいました。
私たち一行は、宿泊施設のあすてらすを福祉バスと乗用車に分乗して国道9号線を西に向かいます。約20分で、目的地の仁摩サンドミュージアムに到着しました。
この砂博物館は、建物はガラス張りの6つのピラミッド群からなっており、仁摩町出身者の建築家、高松伸の設計で、近くにはない特徴ある建物ですのですぐにわかります。
駐車場はバス1台と障害者用駐車場が2大ありました。一般用駐車場は国道9号線を渡った向かい側にありました。
バスを下車するといきなり、24段+23段の階段が迎えてくれました。
まず、施設の概要を説明しておきます。タイムホール(一年計砂時計「砂暦」の展示のほか砂のオブジェの展示があり、「鳴り砂」についての詳細な解説がなされています。)また、AVホール・アートギャラリー・ふれあい交流館・ガラス工房・展示コーナーなどがあります。
また、コップに砂を吹き付けて、オリジナルの絵柄を彫刻する「サンドブラスティング」体験や、バーナーを使ってガラスを溶かして、ネックレスなどのアクセサリーを作る「バーナーワーク」も実施しているそうです。
本館の正面入り口で入館手続きをしてメインのホールに向かいます。ホールにはまず高さ5,2m最大直径1mのガラス製のひょうたんのくびれをもう2つ3つおおくしたような砂の入った容器が目に飛び込んできます。
この砂博物館には、世界一大きな一年計の砂時計があります。1年間で、1噸の砂時計です。
ガイドの方の説明によると、そもそも何故、仁摩町に砂時計を作ったのか?という話から始まりました。
仁摩サンドミュージアムの原点になったのは、鳴り砂の美しい浜である琴ヶ浜があるからです。琴ヶ浜は、仁摩町の海岸に約1.6kmに渡って続く砂浜です。その砂浜は歩くと「キュッキュッ」と美しい音を奏でます。
その音の美しさが琴を奏でているかのように聞こえるから琴ヶ浜なのです。
また、鳴り砂とは、丸みを帯びた石英が多く含まれた砂のことをいいます。鳴り砂海岸は日本中に数ヶ所あるといわれていますが、浜が汚れていない事や砂粒が小さく揃っている事など稀な条件の下、浜の全域にわたってよく鳴る砂浜は、今では数えるほどになってきています。
一日の砂の落下速度の調整は、容器の上部を温めたり、下部を温めたりして砂の通過量をコンピューター管理をしているとの事です。
容器の中の砂は、0,1ミリメートルで粒が揃っている事が必要だそうです。残念ながら琴ヶ浜の砂は0,27mmでガラス容器が物理的に製造出来なったので、仙台市産だそうです。
また、砂容器のレプリカがあり、容器のガラスの厚みや大人2人がかりで最大直径をやっとで届くくらい大きい事などを実際に触れて感じる事が出来ました。お茶碗に鳴き砂が入れてありそれをすりこぎで突くときゅッきゅッと鳴りました。
次回は、工芸コーナーでふき砂やガラスのアクセサリーにも挑戦してみようかと思います。
詳しくは、下記に連絡先を記載しますので、お問い合わせ下さい。
お問合わせ  仁摩サンドミュージアム
住所 : 〒699-2305 
島根県大田市仁摩町天河内975
TEL : 0854-88-3776   
FAX : 0854-88-3785
URL : http://www.sandmuseum.jp/

最後に琴姫伝説を引用しておきます。
長門壇ノ浦の源平合戦で平家が敗れ去った寿永4年(1185年)春のこと、激浪に洗われて痛々しい姿になった1艘の小舟が馬路の浦へ漂着しました。その中には、みめうるわしい姫が、気を失って倒れていました。その優しい腕には、しっかりと琴が抱かれていました。
姫は村人達の手厚い介護により、ようやく元気になり、若き命は助かりました。姫は平家の一門でありました。哀れな平家の最期に寄るところ無き身を、情け厚いこの馬路に留めることにした。それから、せめて村人たちへのお礼にと、日毎夜毎、姫が奏でる琴の音が、浜一帯にやさしく、時には悲しく、白浜に響き渡りました。奏でる琴の音色は村人たちをはげまし、なぐさめたといいます。村人たちは姫を心から慕いうやまうようになりました。
しかし姫は、恐ろしかった戦いを思い、また都の生活をしのび、いまの運命のはかなさを嘆かずにはいられませんでした。そうして1年、春がめぐってきたある日のこと。漁から帰った漁師たちは、いつも響く琴の音が聞こえないことに気付きました。これをおかしく思い姫の住家を訪ねてみると、美しい姫は舟の中で琴を抱いて倒れていました。ちょうど、この浜に流れ着いたときと同じ姿で、すでに息絶えていたのです。
村人たちは、姿美しく心優しかった姫の死をいたみ悲しみ、浜一帯が見下ろされる丘に、琴と一緒に葬りました。翌朝、漁に出ようとした漁師たちが浜を歩くと、琴を奏でるような美しい音が鳴りました。村人たちは、きっと姫がこの浜に心を残していったに違いないと言い合い、この浜を琴ヶ浜と呼ぶようになりました。



美保神社に祭られているえびす様の鶏嫌いはどうして?!

2016年05月23日 14:39   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
ここのところ夏を思わせるような気温の高い日が続いている松江市です。
さて、皆様のお住まいの神社にもお供えしてはいけない物があったりしませんか?
松江市の美保神社の神様えびす様は、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いなのだそうです。これには、それだけの理由があります。神様も人の子?なのでしょうか。少しユニークなエピソードが隠されていました。
ここからは、引用です。
えびす様事代主神は、中海を渡り美保の対岸にある東出雲町揖屋(いや)の三嶋溝杭姫命(みしまみぞくいひめのみこと)のもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていました。ところがある夜、一番鶏が時刻を間違えて、まだ夜も明けないうちに刻(とき)の声をあげてしまいました。急いで帰路についたところ、あわてられたせいか途中で船を漕ぐための櫂(かい)を海中に落とされ、仕方なく足で掻いている時に、その足をワニ(サメ)に噛まれ不具になられました。やっとの思いで美保に帰り着いたえびす様の耳に、今度は正確な刻の声が聞こえました。怒ったえびす様はそれ以来ニワトリを忌むべきものとされたと伝わっています。
以後、里(美保・揖屋)の人は鶏肉、鶏卵を食べず、鶏を飼うこともご法度としました。
 えびす様は、右手に釣りざおを持ち、左手に鯛を持ち片足を曲げておられるのはこの時の傷だからだそうです。
ですので、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いという訳なのです。
ちなみに、この時期、オンドリがコケコッコーと鳴くのは何時ころか、アナタはご存じでしょうか。五月のいま、午前4時、もしくはそれより15分早い時刻です。
手こぎの船では1時間以上は余裕でかかると思いますが、そこは神様ななのでしょう。
それはともかくとして、美保神社の神事には国譲り神話にまつわる青柴垣神事があります。この神事を取り仕切るのは氏子なのです。くじ引きで当家に当た美保神社の氏子は交代で1年間ないし4年間、さまざまな厳しい修行をするそうです。その間、鶏肉も鶏卵も食べられないのだといいます。
毎朝、海に入って身を清めて、一年間続ける事など真冬にも行うのです。

地元の一般市民によって千何百年ものあいだ受け継がれて神事を行うのも神様の偉大な力と伝統を絶やさないという心意気には、頭の下がる思いがします。



出雲市斐川町にある仏経山(ぶっきょうざん)登山に挑戦してきました!

2016年05月17日 13:43   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。

今回は、出雲市斐川町にある仏経山登山の話題です。
この山は、出雲風土記に記されていた神名火山(かんなびさん)と呼ばれていましたが、今は仏経山(ぶっきょうざん)と呼んでいます。神の山から仏の山に呼び方が変わった全国的にも珍しい山です。標高は366mです。高さ的にはそんなでもありませんので、楽に登頂出来るのではないかと挑戦してみました。
仏経山登山者用駐車場に車を止めて、いざ出発です。山陰道がすぐ近くにあって、走行する車のエンジン音が絶え間なく聞こえます。仏経山トンネルもすぐそこにありました。
最後の民家までは約100mまで、アスファルト舗装の道路があって、その先は行き止まりになっています。そこのすぐ手前に登山入口の看板がありました。
リードをつけた犬と放し飼いの犬2匹が私たちを出迎えてくれました。
登山道に足を踏み入れるとそこは、路幅が50cmもないくらいで、竹の葉や木の葉が足元には沢山積もっています。それに昨日の暴風で竹が倒れて路を塞いでいました。竹林浴ゾーンを過ぎると路には、ますます石ころや木の根っこがあったり勾配は急だったりして簡単には登れません。思ったより辛い登山になりそうです。
耳をすましてみるとちょろちょろと水が流れる音がしています。山水(やまみず)なのか池でもあるのかは竹や樹木で判別出来ませんでした。あとで、調べてみると美しい池があったようです。
三方を樹木に囲まれた森林トンネルをひたすら進みます。上を見上げると木の葉の間から少し木漏れ日がしています。足元の悪さに10分も歩くとすでに汗が滲んできてハーハーともうきつくなってきました。時々ある20~40cmの芽っ子の段差が余計に路を険しくしています。険しい路ですが、時折、広い路幅と平らなところがありました。5分くらいずつ休憩をしながら登ります。山腹には、展望出来るような開けたところまで登ってきました。斐川平野が一望出来ます。出雲空港はもう少し東の方向なのか視界には入りません。
今回はちゃんとトレッキング シューズを履いてきましたのでまだ、ましですが、とてもスニーカーでは無理そうです。
登山路入口からすでに40分近く時間は過ぎています。ここで、パーカーは脱ぎ捨ててリュックに押し込みました。お茶を飲んで出発です。
よく踏まれた登山道をしばらく進むと、巡視路は直進方向に続いていますが、登山道は右へ分岐します。分岐点には指導標が立っていますので迷う事はありません。山腹につけられた道が続きますが、このあたりからは、より一層急に滑りやすくなりますので、一歩一歩ずつゆっくりと登って行きます。
見晴らしはないものの、明るい木漏れ日の射す登山道を快適にしばらく進むと、坂の傾斜がきつくなり、ロープの渡された坂道を登ります。このロープは約10mくらいありますが、下半分は直径3cmくらいですが上半分は工事現場のトラロープみたいでか弱いものでした。一層きつくなった路を登ると空が開けて頂上広場に到着しました。
登って来た路を下山するのかと思うと気が滅入りそうです。
やっと到着です所要時間は約1時間30分もかかりました。。
まず目につくのは、広く平坦な展望広場の中央には南無妙法蓮華経と彫られた石塔が立っています。北の展望を眺めると斐川平野が広がっています。
きょうは、霞み気味の展望ですが、眼下に広がる景色は美しいですが、頂上周辺に立木があり視界が不十分な感じです。展望広場入口には、案内看板があり、仏経山のいわれが説明してあります。
案内にはこう書かれています。
 出雲平野から南を見ると、ひときわ高くそびえ立つ山を古くから神名火山といっていました。出雲風土記(733年)に「神名火山という」とあります。神名火の名火は、かくれこもるという意味がありますので、キサヒの神がおしずまりになっている山といわれています。これを今は、仏経山と読んでいます。
 戦国時代中国地方に勢力をもっていた武将尼子経久は、この山に十二の寺を建て、薬師十二体を安置し、山の名も仏経山と改めて、尼子家の安泰を祈ったといわれます。神の山が仏の山に変わるという全国的に珍しい山です。
 また東の峰には、天保年間に建てられたと言われる石塔があり、新川を開通した時、無縁仏の霊を祀ったものと言われています。
「斐川町史より」
頂上広場を左の方向に100m進むとNTTの中継アンテナがありました。本当の頂上はこの辺りかもしれません。昔も今も一望にみわたして斐川平野を見守っている神様の山なのでしょう。
1時間程昼食をとって下山しました。帰りの時間は約1時間かかりました。
登山道入り口から3時間40分の行程でした。GW中でしたが登山道ですれ違ったのは家族連れ人組だけでした。山では、すれ違うと必ず「こんにちは。」と挨拶をします。なのに下界ではあんまりご近所さん以外はしません。いつもながら不思議な思いで仏経山駐車場を後にしました。
今日は、とても気持ちの良い汗をかきました。



小泉八雲の桜にかかわる怪談の二つ目は、『十六桜』です

2016年05月16日 10:57   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
小泉八雲の桜にかかわる怪談の二つ目は、『十六桜』です。地元では「十六日桜」と呼ばれているそうです。
どうゆう訳なのか二つとも松山市に現在でも現存している桜の樹です。
前回の『乳母桜』より数段ぞっとしますよ。
今日はたまたま、16日ですのでこのお話の武士の月命日となりますね。
昔から先人たちは、自分の命を捧げて身替わりとなるとか橋やお城の建設の人柱になるとか神様に願掛けをしてきました。
今でも好物を絶って願い事をするという話も時々耳にしますね。
ここから引用です。
 伊予の国和気郡(わけごおり)に、「十六桜」と呼ばれる桜がある。毎年1月16日(陰暦)当日にだけ咲く。十六桜春を待たずに、大寒の頃に咲くのは、ある人間の魂が宿っているからである。 この桜の木、伊予のある侍の屋敷の庭で育っていたもの。開花も3月末から4月にかけての当たり前の時期であった。 
 その侍、幼少の頃は桜の木の下で遊び、桜を褒めたたえる和歌を書いた短冊を、枝にぶら下げる行事も、先祖から100年以上に渡って続いていた。 
 侍は歳をとり、子供達には先立たれ、その桜のみが彼の愛情の対象となってしまった。 
ところがある夏の日、その桜が枯れ死んでしまう。 
隣人は彼の心の慰めとなればと、美しい桜の若木を彼の庭に植えてくれた。 全身全霊で老木を愛でてきた侍には、それを失った代わりに、心の支えになるものは、何一つなかった。 
 老侍はその桜木を甦えさせる方法を思いつく。「身代わり」になるというのだ。 
桜の枯木の下で、白い布を広げ、更に敷物を敷き、その場所で武士の作法にしたがって、「腹切り」をする。 
 彼の魂は、木の中へ入り、同時刻、花を開花させたのでございます。 
そして毎年、その桜の木は、一月十六日、白い雪の季節に今もなお開花するのでございます。 
(湯浅卓・訳) 
おしまいです。



小泉八雲の怪談 姥桜(うばさくら)に伝わるぞっとするお話

2016年05月10日 14:18   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
桜の季節も終わり葉桜となりましたが、小泉八雲の桜にまつわる怪談を紹介します。
小泉八雲の桜にまつわる話は二つあります。 『乳母桜』、『十六桜』櫻のものがたりです。
まずは、乳母桜』からです。
姥桜とは、ヒガンザクラやウバヒガンなど、葉が出るよりも先に花が咲く桜の俗称です。娘盛りが過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性の事を表しています。
もともとの意味は、姥桜は、花の盛りに葉がない桜を、歯のない姥にかけたもので、かなりの年増でありながら艶かしい女性もいうようになったものです。現代では、美しさを表す「桜」よりも、老いを表す「姥」に重点が移り、年甲斐もなく若作りをしている女性を指すようになりました。
かの小泉八雲はどういうふうに理解していたのかは不明ですがおそらくは奥さんのセツさんの考えがかなり影響したものではないでしょうか。どうも語源に近い意味に捉えているようです。
今回は、松江に関係はしないのですが紹介します。
ところは、愛媛県松山市の話です。松山城の西にある小高い山は、西山と呼ばれています。西山の麓に国宝建造物のある大宝寺があります。
ここから本題です。引用文になります。
昔々、角木長者といわれる長者がいた。長者は子供に恵まれず、大宝寺のお薬師様に「子供が授かりますように」と願かけをした。この願いが叶い女の子が生まれ、名を「るり」と名付け乳母が大事に育てていた。ある日、乳母の乳が出なくなり子育てに難渋していた。子供を授かったお薬師様に願ったところ、やがて乳母の乳も元通りになり、お礼に本堂を建立したという。
娘は成長し15歳を迎えた頃、重い病になり、乳母は「我が命に代えてでも、るり様をお助け下さい。」と大宝寺のお薬師様にお祈りをした。その甲斐あって、るり姫は平癒し元気を取り戻したが、乳母の身体は衰弱し、お薬師様との約束事だと言って薬も口にせず「お薬師様のお礼に、桜の木を植えて下さい。」と言って死んでしまった。長者は乳母の真心を思い、桜の木を本堂の前に植栽した。
桜は成長し花の咲く時期になると、母乳のような色の見事な花を咲かせているという。
それで、この桜は【姥桜】【乳母桜」と呼ばれています。
おしまいです。