松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

松江市周辺に幻想的なホタルの乱舞を見に行こう!!

2016年06月03日 15:30   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
初夏の風物詩といえばホタルですね。
夏の宵、里山のあぜ道を歩くと、川岸のくさむらから一番ボタルが飛び立ちます。そして、次々と湧き出るように無数のホタルが舞いはじめますね。この世のものとは思えない幻想の世界です。
まさに、日本の夏の原風景ですね。ホタルは、とても魅力的で不思議な昆虫なのです。ホタルは、美しい自然があってこその存在です。
松江市周辺でも昭和40年代まではどこの川でも良く見られたホタルは減少しました。河川の護岸工事や農薬によってすっかり生態系が変化してホタルの好物の川ニナが住みつかなくなっていました。
その後下水道の普及により川の水質は改善されましたが、護岸のコンクリートはそのままでした。
良き時代の自然を子どもたちに受け継ぐために大人たちが各地でホタルの繁殖に挑戦しました。そのかいあって、すこしずつ自然が回復してきました。
以下に主なイベントを掲載しますので、是非、ご観賞下さい。

ほたるイベント
吉田ほたる祭(安来市)
「きれいな川とホタルを次の世代に残そう」と自然増殖に取り組み、毎年ほたるの季節に開催されています。イベント日にはほたる祭名物・そうめん流しや、地元特産品などの各種屋台が並びます。

日時 2016年6月9日(木)~6月13日(月)
イベント日:6月11日(土) 夕刻より
場所 島根県安来市 吉田交流センター付近 [MAP]
問合 吉田交流センター
0854-27-0325
詳細 安来市観光協会 公式サイト
さぎの湯温泉 竹葉 ホタルバス運行(安来市)
足立美術館に近い、さぎの湯温泉旅館「竹葉」の近隣には、自然のホタルが飛び交うところが多くあり、その日に多そうな場所にバスで案内してもらえます。
ホタルの癒される光の乱舞で田舎の夏が楽しめるツアーとなっています。 

日時 2016年6月1日(水)~30日(木)
場所 島根県安来市古川町438 [MAP]
問合 さぎの湯温泉 竹葉
0854-28-6231
関連 さぎの湯温泉 竹葉 公式サイト
ホタルとんじょバス運行(松江市)
玉造温泉から車で10分、なんとものどかな田んぼと川にホタルの里があります。地元の有志が毎年大切に管理し保護区に指定されていて、シャトルバスでご案内します。(旅館宿泊者限定)

日時 2016年6月中旬(蛍の発生を確認後、約2週間運行)
※蛍が発生していない期間は運行しませんので御注意ください。
バス出発:20:30 温泉街ゆ~ゆ前より 
場所 島根県松江市玉造温泉 [MAP]
問合 玉造温泉旅館協同組合
0852-62-0634
詳細 玉造温泉旅館協同組合公式サイト
赤川ほたる観バス(雲南市)
毎年運行されるこのバス企画は、幻想的な「赤川ほたるの世界」に加え、奥ゆかしい「海潮神楽」の舞を存分に味わうことができるとして好評です。

日時 2016年6月11日(土)・12日(日)
19:00 JR出雲大東駅発(乗車受付は18:30より)
場所 島根県雲南市大東町 JR出雲大東駅発 [MAP]
料金 大人(高校生以上)1,000円、
小人(小中学生)800円 
※未就学児は無料 
定員46人/日 ※要予約
問合 赤川ほたる保存会事務局
0854-43-8164
詳細 うんなん旅ネット
海潮荘
ホタル鑑賞の名所として知られる海潮温泉の宿。露天風呂でホタルに出会えちゃうかも?
≫ 海潮荘 公式サイト
蛍カフェ&時降る森のコンサート(大田市)
三瓶小豆原埋没林公園と西の原レストハウスのコラボレーションで開催する、三瓶の食材を使った食事と蛍の光を楽しむイベントです。芝生園地でオープンカフェを楽しみながら、蛍が飛び交う夕暮れを待ちます。料金2,000円、定員20名、要予約(先着順)となっています。

日時 2016年6月18日(土)
場所 島根県大田市三瓶町多根ロ58-2 三瓶小豆原埋没林公園 [MAP]
問合 三瓶小豆原埋没林公園
0854-86-9500
詳細 三瓶小豆原埋没林公園 公式HP
他にも各地の観賞ポイントを紹介していますので、下記URLよりご覧下さい。

島根県:ホタル観察の情報(トップ / 環境・県土づくり / 自然・景観・動物 / 自然環境 / 島根の自然公園・保護・観察 / 旬しまね)
http://www.pref.shimane.lg.jp/infra/nature/shizen/shimane/shun/hotaru.html



6月10日は時の記念日です

2016年06月03日 13:45   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今日は、6月10日の「時の記念日」について考えてみたいと思います。
私たち現代人は時間に追われる人もいれば一日が長く感じられる人それぞれいらっしゃると思います。電車の時間などは数分遅れれば「どうなっているんだろう。」と文句を言う人も多い世の中です。また、日本ほど交通機関が時刻表通りに運行されている国はありませんね。
それだけ時間は誰にでも平等に与えられたものだからなのでしょうか。地方都市の松江市に住んでいると都会に比べて時間の流れがおちらと(ゆっくり)である気がします。それだから人は、ゆったりとした時間を求めて旅に出るのでしょうね。
さて、この記念日が制定されたのは、1920年(大正9年)の事です。思ったより古くに制定されています。約100年前になります。
目的は、「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」というものです。
この記念日の由来はご存知の方が多いと思いますが今一度復習しておきます。
天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、この日が時の記念日に制定されました。
ところで、大名時計とも呼ばれる「和時計」は、日本生まれの世界的発明品だった事をご存じですか?その頃の時間は明け6つ~暮れ6つを12等分にして時刻を告げるものでした。夏冬で変化する昼夜の長さを6等分する不定時法をもとに作られており、同じ昼の一時(いっとき)(2時間前後)も、夏の方が長い▼夏は早朝から夕方まで働くことが善であり、お天道様が見えている間は休むことはばかられる、と考えた農耕民族の発想ではなかったのでしょうか。
しかも、太陽が昇30分前から太陽が沈んだ30分後までというものでした。
当然ながら日本全国で同じ時刻を共有してはいなかったのです。当時は数時間のずれなどさほど問題にはならなかったのでしょう。
この和時計(わどけい)も江戸時代から明治初期にかけて制作・使用された不定時法を用いるための機構を持つ世界でも珍しい時計でした。あの時代劇で大名や豪商屋敷の床の間にある時計です。
しかしながら、明治6年(1873年)を以って日本は定時法へ移行したことにより、その実用的使命を終えました。
現代においては、電波時計などというものが存在し、100年経過しても数秒狂うかどうかなるものが登場し、世界中で時刻を共有する時代となりました。この記念日を迎えて少し時間の大切さを考えてみてはどうでしょうか。



天気予報はいつから始まったの?

2016年06月02日 15:15   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
6月に入り夏本番に向けて季節も移り変わろうとしています。
毎年この時期からゲリラ豪雨などの災害が増えてきます。
6月1日は「気象記念日」です。ご存じでしたでしょうか?
由来は、1875年(明治8年)6月1日に明治政府の手により東京気象台として東京で1日3回の気象と地震の観測が開始されたことから、1942年(昭和17年)に制定されました。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラのあたりです。
ところで、日本で最初の天気予報は、E.クニッピング(現在のドイツの気象学者)により1884年(明治17年)6月1日に毎日3回全国の天気予報が発表されています。その天気予報(日本で初めての天気予報)は次のようなものです。
●午前6時
 全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ
●午後2時
 変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ
●午後9時
 中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ
今でいうところの概要を言葉少なく発表していたようです。少しは天気の三光になったかもしれませんがおそらく一般の国民には、理解不可能だった事でしょう。
現在は、気象衛星を使ってピンポイントの気象の変化をコンピューターにかけて予報しますので、当時の地上からの観測とは段違いに正確さに欠ける事は言うまでもありません。しかし、当時は気象観測といっても、地上観測だけですからデータ量や気象に対する知識や予報技術に格段の差があることは確かです。明治の人の勇気と災害を防ぎたいという熱意には頭が下がります。



あじさいと大亀伝説の月照寺(げっしょうじ)の散策はいかがですか?!

2016年05月31日 15:15   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
明日からは6月に入り梅雨も間近かとなり、しとしとと雨の季節もまた、風情のある松江の街の散策はいかがでしょうか?
今回は、松江藩(松平家)9代藩主の霊廟があります月照寺(げっしょうじ)の紹介です。この時期には、約30000本のあじさいが出迎えてくれる松江のあじさい寺ともいいます。
この寺の境内は、約1万㎡の広さを持ち、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
特に目立つのは、不昧公の廟所と左手には初代・直政公の廟所があります。こちらの二つの廟門は、も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、共に島根県の有形文化財に指定されているます。
それと、ここからが今回の本番です。第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
小泉八雲(松江ではヘルンさんと呼ばれています)の怪談「多亀伝説」があります。
【月照寺の大亀伝説】を引用します。有名な話ですので、ご存じかもしれません。
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。
引用はここまでです。
6代藩主が、親孝行を願って建立した大亀がなぜ、暴れだしたのかは筆者には不明ですが、きっと世の中に親不孝者が増えたから自分でもコントロール出来なくなるほどの不思議なパワーが乗り移ったのかもしれませんね。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。
このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあるようですよ。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙な気にさせられます。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような雰囲気なのです。もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗が出てきます。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。
この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。
これからの季節、少し涼しく(?)なるかもしれませんよ♪
お問い合わせ先は、以下です。
電話番号 0852-21-6056
所在地 島根県松江市外中原町179
拝観時間 8時30分~17時30分(4~10月)、8時30分~17時(11~3月)
アクセスは、 JR松江駅より松江レイクラインバスで月照寺前バス停すぐです。
尚、あじさいの見ごろは6月中旬から7月中旬です。



どうして雲州力士は江戸時代には強かったの?!

2016年05月31日 11:12   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
プロジェクトゆうあいの玄関に新居を構えたツバメさんの子どもたち3がピーチクパーチクとお腹を空かせていて、親ツバメは忙しそうに餌を運んでいます。
さて、島根県出身の大相撲力士は現在、現役なのは隠岐の海が、80何年ぶりに三役になりましたが、江戸時代には雲州松江藩の力士が番付表の上位を独占していました。
そもそも神様の国出雲は相撲の原点となった神様がおられました。
起源は古く、古事記の国譲り神話に、出雲大社近くの稲佐浜で力比べをした建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が登場しています。日本書紀には、出雲国の野見宿祢(のみのすくね)が、日本一と力自慢をする大和国の當麻蹴速(たいまのけはや)を打ち負かした逸話があり、二つの神話・伝承が相撲の起源とされています。
さらに、江戸時代になると「雲州力士なくして江戸相撲は成り立たなかった」と言われたほど、松江藩の力士たちは大きな存在感を示していました。各藩所属の力士はお抱え力士と呼ばれ、藩主から庶民まで相撲に熱狂しました。
何故、松江藩の力士は強かったのでしょうか?
松江に入府した松平家初代藩主・直政(徳川家康の孫で真田幸村より軍扇をもらった武将)も大の相撲好きだったらしいのです。相撲取りを藩船に乗る水夫の水主(かこ)として召し抱えました。他藩にはない制度でした。要するに、力士を終身雇用の公務員として採用し、水主は現役退役後は後進の指導や新人の発掘も行ったという訳なのです。
当然に当時は力士長屋もあり雷電為右衛門(らいでん ためえもん)が住んでいた場所も当時の住宅地図に載っています。土俵も明記されていました。
7代藩主・治郷(不昧)の時代になると相撲の盛り上がりは最高潮に達しました。享和元(1801)年3月の番付表では大関・雷電為右衛門(らいでんためえもん)をはじめ、雲州力士が西方の上位をすべて占めました。相撲しか娯楽がなかった時代、強い力士は庶民の英雄となり、勝率9割6分、大相撲史上最強の力士といわれました。
今では考えられないようなウソのようなホントの話です。この資料はちゃんと大相撲博物館に残っています。
力士は藩の力を誇示する役目を背負い、広告塔の役割も担っていました。力士はどの藩に属しているのか、一目で分かる図柄を施した化粧まわしをしめました。
その頃の松江藩のは武士、町民を問わず花高々だったことでしょうね。
日本人力士が早く横綱になる日もそう遠くないでしょう!