アリア@矢野です。
皆様、神々しい夕日で癒やされに来ませんか!
「今日の夕日予報は『100%』。最高の夕日が見られそうですよ。」
2017年に認定された日本遺産「日が沈む聖地出雲」は、
23の構成文化財で語られます。
核となるのは、出雲に息づく「夕日への信仰」だ。
古事記の「国譲り神話」の舞台「稲佐の浜」をはじめ、出雲の海岸線は、
神々の国への入り口と考えられてきました。
日が昇る伊勢に鎮座する伊勢神宮(三重県)が日本の昼を守っているのに対し、
日が沈む出雲・日御碕に鎮座する日御碕神社の「日沈宮(ひしずみのみや)」は
「日本の夜」を守っています――。
その独自の文化は今もこの地に根付いている。
構成文化財の一つ、出雲日御碕灯台(国重要文化財)は1903年に設置されました。
石造りの灯台としては日本一の高さ43・65メートルを誇ります。
灯台の白い石肌が夕日に照らされる姿は、海と空の境界を守る道しるべのようで
格別と言われています。
灯台から海沿いに細い道を約10分歩くと、朱塗りの壮麗な日御碕神社が現れます。
天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる「日沈宮(下の宮)」と
素盞嗚尊(すさのおのみこと)をまつる「神の宮(上の宮)」からなります。
太陽神である天照大神を日没の夕日と結びつける点が出雲ならではないかと思います。
毎年8月7日の夕刻には、夕日の祭り「神幸神事(みゆきしんじ)」が行われます。
日御碕にある国の天然記念物・経島(ふみしま)ではこの時期、
数千羽のウミネコがひしめきます。
5月の連休明け頃には繁殖のピークを迎え、ヒナが誕生し始めます。
夕日に染まる空を親鳥たちが舞う姿はこの季節だけの特別な光景です。
日御碕は『自然からの贈り物』である夕日を一番美しい形で受け取れます。
自分自身と向き合い、心身を癒やす貴重なひとときをお過ごしください。
日御碕ビジターセンターは午前9時から午後5時まで開館(入館無料)。
出雲日御碕灯台の参観は午前9時から午後4時半(土日祝は午後5時)まで。
正午から1時間は休業、中学生以上300円。
日御碕神社は参拝自由。経島のウミネコは遊歩道から随時観察できます。
アリア@矢野です。
私は、秋が四季の中では、一番だと思っています。
なぜなら、秋は、様々な木々には実がつくし、山には、きのこが生えてくるからです。
日本では、箸の上げ下げ・持ち方・使い方などに気をつけますが、
箸を横向きに置くのは当たり前なので、理由など考えたことなどないでしょうね。
勿論、日本以外にも箸を使う国はありますが、
中国をはじめ他国では箸を縦向きに置きます。
なぜ日本では箸を横向きに置くのか?
箸は中国から日本に伝来しました。
箸の発祥は古代中国。
大陸からさまざまな文化が日本に伝わりましたが、箸もその一つです。
「遣隋使が持ち帰り聖徳太子が朝廷の儀式に採用した」、
「6世紀に仏教とともに伝わった」など諸説ありますが、
飛鳥時代の朝廷では、箸を使用していたと考えられています。
また、奈良時代の平城京、長岡京の遺跡から多数の箸が発掘され、
一般の住宅区画から箸が発見されていることなどから、
奈良時代の終わり頃には一般の人も箸を使用していたことがわかります。
なお、弥生時代の遺跡からピンセット状の折箸が発見されていますが、
これは神様への配膳に用いる祭器で、人が食事をするためのものではないと
考えられています。
こうして大陸から伝わった箸ですが、文化の違いで置き方に違いが生じました。
もともと中国では箸を横向きに置いていました。
唐の時代の壁画に描かれた宴会の様子から、箸が横向きに置かれていたことが
確認されています。
横置きから縦置きに変化した時期や理由は定かではありませんが、
肉食を主とする北方騎馬民族の影響とする説があります。
五代十国時代といわれる戦乱の時代に北方騎馬民族が支配するようになると、
肉を食べるためのナイフを横向きに置くと危険で使いにくいため、
西洋と同じようにナイフを縦向きに置くようになり、
箸も縦向きに置くようになったと考えられています。
やがて時代が移りナイフを使わなくなっても、
箸を縦向きに置く習慣は残ったのではないかといわれています。
また、中国では食べ物を共有し大皿に盛った料理をとるため、
縦向きに置いたほうが使いやすいという説もあります。
日本ではそのようなことがなく、食生活が大きく変わることもなかったため、
伝来当初の横置きのままなのです。
そして、日本では横置きに大きな意味を持たせるようになりました。
結界という意味です。
結界というのは、神聖な領域と俗な領域の境界を示すもので、
たとえば神社や神棚のしめ縄は神の領域と世俗を区切る結界です。
食べ物というのは、さまざまなものの命でできており、
私達はその命をいただきながら生きている。
すべては神聖な自然界からのいただき物なので、俗な人間界に対し、
箸の向こうは神聖な領域であると捉え、
箸が結界の意味を持つようになりました。
だからこそ、日本では「いただきます」、「ご馳走様」と挨拶し、
箸を丁寧に扱って食事をします。
箸の横置きの理由を考えてみると中国では昔から箸だけでなく
匙(レンゲやスプーン)も併用します。
ご飯や汁ものは匙、おかずは箸を使用するので、食器は持ち上げず、
食器を置いたまま食べるのがマナーです。
日本では、基本的にすべて箸で食べるので、汁物はお椀を持って口をつけます。
ですから、日本の食器は手で持つものが多く、置いたまま食べるのは
お行儀が悪いとされています。
考えてみれば、お箸は二本の棒にすぎませんが、二本の棒を片手で操り、
はさむ、はがす、くるむ、押さえる、裂く、すくう、のせる、運ぶなど
さまざまな使い方をするのですから、使いこなすのが難しい道具です。
だからこそ、機能的な箸の持ち方を身につけ、箸を使うことによって、
微妙な指の使い方や力加減を幼い頃から習得していきます。
中国は長い箸、日本は短い箸で、箸の形状が違う理由は、中国の箸は
象牙や銀などの金属や木でできており、箸先も尖っておらず、長めです。
これは、もともと宮廷で使われていた名残で、高価な材料が好まれたこと、
会食する相手に敵意がないことを示すために尖らせない、大皿に盛った料理を
自分の箸で取り分けるのが親愛の表現になるので長めになっています。
日本の箸は、箸という字に竹冠がつくように、当初から竹などの木が主流で、
細かい作業ができるよう先が尖っています。
また、日本は個別に盛るのが基本で、大皿料理を取り分ける際は取り分け用の
箸を別に用いるため、個人が使いやすい長さで良いわけです。
同じルーツの箸なのに、文化の違いで異なる発展をとげてきました。
箸文化のおもしろさを感じますね。
どうでもいいようなお話でした。
知識の引き出しに収めておいてくださいね!
盲導犬 アリア@矢野です。
10月に入り気温も25℃を下回り朝は長袖でないと寒いくらいの松江市です。
散歩では、キンモクセイのいい香りがしています。
ところで、時代劇の「暴れん坊将軍」でお馴染の「め組」という町火消しは
この時代の消防団ですね。
テレビではあんまり通常はこれといって仕事をしてはいないように見受けられますが
実際のところはどうだったのでしょうか?
町火消し組織は江戸時代に入ると割りとすぐに組織されたようです。
特に8代将軍徳川吉宗の享保の改革では町奉行の大岡越前に命じて
火消し組織も改革したようです。
江戸107町の火消しは、ボランティアの消防団組織ではなく一人ひとりの火消しに
きちんと給料が出ていました。
町奉行からではなく江戸の町の費用で運営され、たとえ火事がなくとも
ちゃんと支払われていました。
ただし、その額はかなり安く、ヒラの火消しで一ヶ月に450~800文程度。
1000文を2万円に換算すれば、9000円から1万6000円程度でしかなかったようです。
一番給料の高い纏(まとい)持ちでも2~3貫文、現代のお金に換算して
4万円から6万円といったところだったようです。
ほかに役得として、湯屋や寄席、芝居がタダになることもあったようです。
これは、給料が安いのだから、町人たちからせめてものサービスといったところ
だったようです。
そんな給料で暮らしていけたのは、彼らには鳶職という本職があったからです。
火消しはアルバイトのようなものにすぎなかったので、
安月給でもやっていけたのです。
また、彼らが安月給でも火消し業に励んだのは、町火消しならではの
魅力があったからです。
町火消しが火事に恐れず飛び込んでいくさまは、江戸っ子気質に響くものがあり、
彼らは一種のアイドル的存在でもありました。
とくに各組の組頭は、相撲力士に並ぶ、江戸の花形とされました。
「め組」の頭の北島三郎は町内からは一目おかれていた訳ですね。
花形として脚光を浴びる快感があったから、給料の安さは
さほど大きな問題ではなかったようです。
では、江戸ではどのくらいの火事があったのでしょうか?
慶長6年(1601年)から慶応3年(1867年)の267年間に
大火だけで49回、小火も含めると1798回もの火事が発生しました。
当時の町火消しは江戸全体で約1万人で構成されていました。
今でもとび職は高層ビルや瀬戸大橋など高所作業で鉄骨などの組み立てなど
花型ですね。
また、保存会では正月や結婚式などのお目出度い席でのきやり歌を披露していますね。
時代劇も当時の時代背景を認識しているか否かで面白さが増しますよね。
アリア@矢野です。
あれほど暑かった夏も終わり9月20日にはお彼岸の入りです。
宍道湖は、言うまでもなく松江の水の都のシンボルとして市民に愛されてきました。
年齢は、1万年前とも300年前(江戸時代)とも言われています。
宍道湖は、気候の変動などにより海水水位が100m以上も
上がったり下がったりを繰り返し、斐伊川からの土砂の流失から
次第に形成されてきました。
宍道湖のとっかかりこのころが、1000万年前と考えられています。
現在の宍道湖と中海が形成されたのは、300年前とすると
何歳と言えばいいのでしょうね?
シジミ漁師がジョレンという漁具でシジミ漁をするのですが、
マンモスやクジラの骨が引っかかるという話は、有名です。
古代のその昔は、島根半島は、島だったという事がわかっています。
また、宍道湖と言えば宍道湖七珍といと言われる多種の魚介類が知られています。
中でも大和シジミは、日本一の漁獲高を誇っています。
「ばけばけ」でも松野セツのシジミ汁の飲み方は、全くその通りで、
「ハー」と言いたくなります。
なぜ宍道湖の大和シジミは、おいしいのかは、塩分交じりの湖水、
斐伊川からの栄養が運ばれてきたからです。
この栄養豊富のシジミは、出雲の神々に大祭ごとに献上されてきました。
神々も好物だったのかもしれませんね。
明治時代に小泉八雲が見た、宍道湖からは、かなり面積が減少しています。
今の宍道湖は、どのように目に映るだろうかと思います。
どちらにしても、水都のシンボルには、違いありません。
環境が変化しないよう市民で守りたいものです。
アリア@矢野です。
島根県北東部に位置する島根半島で、日本海に突き出た岬
「潜戸鼻(くけどはな)」(松江市島根町)の先端に海食作用でできた
洞窟「加賀(かか)の潜戸(くけど)」があります。
「神話の洞窟」とも呼ばれ、明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も
「これ以上に美しい海の洞窟は、そう考えられるものではない」と
絶賛した景勝地です。
遊覧船で加賀の潜戸を巡る約50分のコースで、年間約4000人の観光客が訪れます。
コース途中では、1400万年前の海底火山活動で安山岩と火砕岩が積み重なってできた
岬の地層も見え、その壮大なグラデーションに乗客は感嘆の声を上げています。
加賀の潜戸は、岬の突端近くにあるトンネル状の洞門「新潜戸」と、
加賀港から正面に見える洞窟「旧潜戸」の二つから成り、
波の穏やかな日は船で中に入ることもできます。
また、それぞれに言い伝えがあります。
奥行きが200メートル以上ある新潜戸は、奈良時代に編さんされた
「出雲国風土記」にも記されています。
出雲四大神の一人、佐太大神(さだのおおかみ)の誕生の地とされ、
母神の支佐加比売命(きさかひめのみこと)が弓矢で岩を射通すと
洞内が明るく輝いたと伝わっています。
その伝説の通り、洞門の内部は差し込む光で照らされ、澄んだ海の色とともに神秘的
な空間が広がります。
一方で、旧潜戸は別名「仏潜戸」と呼ばれます。
高さ10メートル以上、奥行き50メートルほどの巨大な洞窟で、
海岸から洞窟につながるトンネルを抜けると、十数基の地蔵とともに、
積み上げられた石の塔が無数に並んでいます。
幼くして亡くなった子どもが、親を思って小石を積み上げたとされる
「賽(さい)の河原」伝説の地です。
地蔵のそばには、我が子を亡くした親が供えたとみられる人形やおもちゃがあります。
洞窟の中のせいなのか、少し寒い感じがします。
「MEMO」
11月の波が穏やかな日には、「マリンプラザしまね」発着の遊覧船が運航され、
約50分の船旅で新潜戸と旧潜戸を巡る。
出航時間は午前10時20分~午後3時20分(受付時間は午前9時30分~午後3時15分)。
料金(税込み)は中学生以上は2000円、小学生は1000円。
6歳未満は、大人1人につき2人まで無料。
問い合わせは加賀潜戸遊覧船(0852・85・9111)。