松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

「半夏生」ってご存じでしたか?

2015年06月29日 15:28   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。ここのところ肌寒い日だったり蒸し暑い日だったりして、何とも過ごしにくいこちら松江です。
半夏生(はんげしょう)は雑節の1つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃とされてこの名がついたものと見られます。
一説に、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになる頃とも言われるようです。様々な地方名があるようですが、こちら出雲地方では、「半夏(はんげ)」といいます。
昔からの風習が伝えられている処は多いようです。この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いのです。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言います。
農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、この日から5日間は休みとする地方もあります。
また、この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしたのだそうです。これは、どんな戒めなのかは、筆者には不可解ですが、湿気が多く雑菌が多く繁殖し、伝染病に気をつけなさいということなのでしょうか。
何だか怖い季節のようです。現代では、天気予報もあり、大雨などはある程度は予測されますが、天気予報が外れる確率が多いのもこの時期なのは確かです。
出雲地方では、この時期に特別な食べ物としては、笹巻き(ささまき)を食べるくらいです。夏至から半夏生の間に作ります。中身は、米粉100%で作ったお団子を若葉の笹で包んだものです。食べ方は、お湯でゆがして、ササを取り除き、砂糖醤油や黄粉をつけて食べます。
皆様の処ではいかがでしょうか。
気候の変わり目を昔の人は、きちんと暦に記しています。経験値の積み重ねと言わざるを得ませんね。現代でも、少しは、暦の享受をしたほうがいいかもしれません。



明治維新の危機にも生き残った松江城!

2015年06月23日 11:34   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。梅雨、真っただ中にもかかわらずゲリラ豪雨もなくこのまま適度のお湿りで過ぎてもらいたいものです。
さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。まずは、当時の背景からです。


江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。


松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
もうすぐ正式に国宝となることもこの勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね。



バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会へ参加しました

2015年06月22日 14:02   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンターの川瀬です。
6月19日(金)に沖縄で開催されたバリアフリー観光の全国フォーラムへ参加しました。

バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会

梅雨明けの沖縄は想像以上に暑く、またフォーラムも熱く開催されました。
各地の先進事例の紹介や、山崎 泰広 による「オリンピック・パラリンピックを目指したバリアフリーインバウンドのあり方」など、とても学びの多いフォーラムとなりました。

次回開催は福島です。


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松江城を築城した堀尾氏の菩提所円成寺(えんじょうじ)

2015年06月09日 14:59   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
6月3日に梅雨入り後は、スッキリしない天気が続いていますが、松江城の国宝指定から相変わらず観光客の多いこちら松江市です。
堀川遊覧船などは、満員状態で、船頭さんを追加募集しているくらいです。
前述では、松江藩藩主の松平家の菩提寺であります月照寺をご紹介しましたが、初代松江城築城の堀尾家の菩提寺については、松江市民でも、知る人ぞ知るというイメージがあります。
遅ればせながら今回は、堀尾氏の菩提寺でありますところの円成寺の紹介です。
松江に堀尾吉晴の入城を再現した武者行列のイベントが行われますが、このお寺の墓所ににうちそろってお参りをします。
さて、このお寺は、旧松江市街南端の松江市栄町にあります。松江城から南に宍道湖大橋を渡り国道9号線を跨いだところで、旧国道9号線(昔の街道)沿いにあります。
今現在では、新国道9号線や卸団地が宍道湖を埋め立てて陸地となっていますが、当時は、この円成寺のある小高い山は、岬のように飛び出した地形となっていました。今でいう「夕日スポット」であったのではないかと思わせます。
旧国道からは、正面数十段の石段を登ったところに本堂があり、来待石で造った大石灯篭が迎えてくれます。
本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸があり、奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されています。 
本堂に入って見上げると、梁(はり)の上に飾りがあり、いずれも家紋で、図柄は5種類あります。「家紋で堀尾家の歴史の一端を目で見ることができる。貴重な財産」だということです。ルーツは天皇家ともかかわりがあった可能性もあるといいます。


ここで、堀尾家の家紋で分かる3代の歴史を引用します。
月山富田城(現安来市広瀬町)に入城した吉晴は1611(慶長16)年、松江への移城にあたり富田にあった菩提寺を洗合(現松江市外中原町)に移し、新たに瑞応寺(現天倫寺)を建立して堀尾家の菩提寺にした。
その後、3代・忠晴が亡くなり堀尾家は断絶。京極忠高が藩主になり、1635(寛永12)年、瑞応寺は現在の場所に移るとともに、忠晴の法号にちなんで「鏡湖山円成寺」と改める。
瑞応寺、円成寺ともに開山したのは浜松から吉晴とともに移り、「松江」の命名者ともいわれている春龍(しゅんりゅう)和尚で、円成寺は春龍和尚が別荘として建てた「臨江庵」跡。庭園にある「来待石六地蔵灯籠」は2メートル近くもある立派なもの。400年の風雪に耐え、今でも重厚な姿は往時の面影を残している。
境内の墓地で探し求めた忠晴の墓は、奥の石段を上った先にある。さらに石段を上った先にある祠(ほこら)は、吉晴と親交が厚かった加藤清正の寄進という。古くから火除稲荷(ひよけいなり)として知られ、今でも多くの住民が祈願に訪れる。さらに石段を上ると宍道湖が一望できる眺望が自慢の山頂に出る。
ここからは、五種類の家紋の紹介です。
五七(ごしち)の桐(きり)
3枚の葉の上に3本の枝。中央には7輪、左右には5輪の花がある。一般には「五三の桐」が多い。天皇家に縁がある紋だが、堀尾家とのかかわりは不明という。一説には豊臣秀吉が授かったものともいわれている
抱茗荷(だきみょうが)
堀尾家の先祖・高階家から受け継がれ、堀尾家の中でも当初使用されたといわれる。関ケ原の戦い当時も抱茗荷の紋が使われていたようだ
法馬(ほうま)
丹波・但馬などで多くの功績をあげた堀尾氏が秀吉から賜ったといわれ、戦場での旗印だった。法馬は両替てんびんの重りに使った分銅(ふんどう)のことで一般的には分銅紋と呼ばれる
六目結(むつめゆい)
結いは協力や団結の意味がある。いつから堀尾家の紋になったかは定かではないが、忠晴のころに多く使われたといわれている
寺紋
円成寺の紋は堀尾家の家紋の「分銅」と「六目結」を並べている


松江城の石垣には、石を寄贈した人たちの家紋が数多く刻まれています。その一つ一つを触って見るのも当時の事が偲ばれます。やはり、そ中でも一番多いのは、この分銅紋です。
今度松江城に行かれる機会があれば是非、触ってみて下さい。分銅をイメージして触って見ると三角形の感じに理解出来ます。



あじさいと大亀伝説の月照寺(げっしょうじ)!

2015年06月01日 15:00   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今日から6月に入りいよいよ夏がもうそこまで来たのかと思いさせる松江市です。
今回は、松江藩(松平家)9代藩主の霊廟がありますところの月照寺(げっしょうじ)の紹介です。
月照寺(げっしょうじ)は、一言で言うと約3万本のアジサイが見守る歴代松江藩主(松平家)の霊廟です。
松江城の西側に位置するこの「月照寺」は、松江城を散策のついでに是非、訪れていただきたい観光スポットです。
約1万㎡の広さを持つ境内には、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
特に目立つのは、不昧公の廟所と左手には初代・直政公の廟所があります。こちらの二つの廟門は、も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、共に島根県の有形文化財に指定されているます。
それと、ここからが今回の本番です。第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
またまた「へるん」さんの怪談噺です。


【月照寺の大亀伝説】を引用します。有名な話ですので、ご存じかもしれません。
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。


6代藩主が、親孝行を願って建立した大亀がなぜ、暴れだしたのかは筆者には不明ですが、きっと世の中に親不孝者が増えたから自分でもコントロール出来なくなるほどの不思議なパワーが乗り移ったのかもしれませんね。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。
このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあるようですよ。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙な気にさせられます。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような雰囲気なのです。もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗が出てきます。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。


この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。
これからの季節、少し涼しく(?)なるかもしれませんよ♪
お問い合わせ先は、以下です。
電話番号 0852-21-6056
所在地 島根県松江市外中原町179
拝観時間 8時30分~17時30分(4~10月)、8時30分~17時(11~3月)
定休日 なし
駐車場 あり
アクセス JR松江駅より松江レイクラインバスで月照寺前バス停すぐ
ホームぺージ http://www.city.matsue.shimane.jp/kankou/(松江市観光ページ)
料金 大人500円 高校生・中学生300円 小学生250円


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