松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(後編)

2019年04月08日 13:14   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。前編の続きです。
当時の借財は、とても返済できる金額ではありません。
そこで借りた元金だけでも70年かけて返済する約束をとりつけます。商人はよくもまあ、納得?したものです。
つぎは藩内ですが、すべての個人・法人間での貸借契約を無効にするという大胆な法律を出し、一気にかたをつけてしまいました。
つぎは行政改革です。
まずは藩の支出を減らします。 支出の多かった江戸屋敷では無駄な贈り物を廃止しました。 ほか藩士約3000人中、968人が役職をはずれ役職給の支給を減らします。減給となった訳です。 また領地の村では大庄屋という農民の代表が世襲で決まっていました。 しかし彼らも人員入れ替えをして、まったく新しい農政を進めていったのです。
結果、田沼意次政権が転覆する原因となった天明の飢饉も、松江藩は蓄えを放出することで乗り切ることが出来たのでした。
後期、不昧公の時代は積極財政政策です。
江戸の中央では松平定信が失脚し、寛政改革が終了した3年後の寛政8(1796)年、松平不昧は満を持して親政を行います。
そのときの取り組みは父、松平宗衍(むねのぶ)の行った殖産興業政策を本格的に花開かせることでした。
 主には以下のような内容があげられます。
例えば、奥出雲のたたら製鉄の経営安定化や鍋釜の製作。
 木綿産業や古手と呼ばれる古着を北前船を通じて日本海沿岸地域へ輸出。
 ロウはぜを使ったロウソクの製造
 朝鮮人参を長崎経由で清国(今の中国)へ輸出
このように藩内の特産品を輸出することで、藩の収入を大幅にアップさせることに成功するのです。
この取り組みは松平不昧の死後も続き、改革がスタートしてから74年後。
天保12(1841)年に松江藩はとうとう借金をすべて返済することになるのです。



松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(前編)

2019年04月08日 13:04   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今回は、「松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!」という話題を前編後編に分けてご紹介します。
松平不昧は茶道に傾倒し、茶道にまつわる文化を育成することで文化都市・松江を築きあげました。
でも、じつは、松平不昧が松江藩主になったとき、藩の財政は火の車でした。 とても文化にお金を出せるような状況ではありませんでした。
松平不昧はいったいどのような取り組みを行なったことで、文化都市・松江を作り上げたのでしょうか?
松平不昧以前の松江藩は、どんなありさまだったのでしょうか?
松江藩は18万6千石。 結城秀康に始まる越前松平家系列の親藩です。
 しかし松平不昧のお父さん、宗衍(むねのぶ)の代には莫大な財政赤字を抱えていました。
そこで、宗衍(むねのぶ)は一念発起します。
延享3(1746)年に「御趣向の改革」とも「延享の改革」とも呼ばれる改革に取り組みます。
これまでの家老に任せる政治ではなく、藩主自身が取り組む改革を目指し、若手の小田切備中という人を抜擢します。 「趣向方」と呼ばれる改革派のチームを編成。
では具体的に御趣向の改革(延享の改革)とはどんな内容だったのでしょうか?
御趣向の改革(延享の改革)とは?
御趣向の改革(延享の改革)の内容は大きく3つです。
1、金融対策
 2、産業の育成
 3、教育の充実
金融に関しては、まずメインバンクの米子(鳥取県)商人はもう相手にしてくれなくなっていたので、大坂や尾道(岡山県)の商人から融資をしてもらいました。
 その資金を元手に藩営の銀行(泉府方といいます)を経営します。
また年貢を一括で先納すると、減税になる制度をつくり当座の資金を得ました。
それらの資金を使って、次にやったことは産業の育成です。
まずは商品作物の普及。
 木綿や煙草、はぜ蝋、朝鮮人参などです。
そしてはぜ蝋をつかった和ろうそくの製造。
たたら製鉄の生産・流通の管理。
 また、その鉄をただ輸出するのでなく、鍋釜を製造するようにしました。
教育については藩校の文明館を設置したのもこの頃です。
このように10年間、積極的に改革に取り組みますが「御趣向の改革」は残念ながら、宝暦期に挫折してしまいます。
改革失敗の3つのポイント
まずは財政赤字にも関わらず、産業に投資し続けたことで金融不安が発生したこと。
そして宝暦の飢饉への対応。
宝暦10(1760)年に比叡山延暦寺の修復工事を幕府から命じられたこと。
この3つの理由から財政は回復することなく、宗衍(むねのぶ)は以後5年間、病気を理由に5年間江戸に居続けることになります。
この時期、病気を理由に参勤交代をしない大名がでてきていました。勿論、参勤交代をすれば多額の費用がただでさえ苦しい財政なのですから・・・。そして結局36歳で隠居、松平不昧に家督を譲ることになるのです。
後編に続きます。



明治維新の危機にもこうして松江城は、生き残った!

2019年04月08日 11:38   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。先週末の6日には「松江武者行列」が好天にも恵まれて400年前にタイムスリップしたような、堂々とした入場風景に松江市民を始め、多くの観光客を魅了しました。観光客からは、近くから見ていると迫力満点で感動したとの声も聞かれました。
さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。まずは、当時の背景からです。
江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
 翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
 68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
 日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。
松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
 勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
 その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
国宝となったのも、この勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね!