松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

奥出雲の景勝地鬼の舌震(おにのしたふるい)で目に青葉・・・はどうですか?

2019年05月07日 15:33   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。「平成最後の・・・」が終わって「令和最初の・・・」が始まって一週間が経過しました。平成の改元の時は天皇陛下が崩御で暗いイメージでしたが今回の改元はGWも重なりお祭りムードですね。
奥出雲では木々には青葉が茂り、森林浴にとてもいい季節になりました。今回は、奥出雲の景勝地鬼の舌震(おにのしたふるい)の紹介です。
松江市から中国山脈に向かって車で約1時間で奥出雲町にありますところの「鬼の舌震」「に着きます。
この「鬼の舌震」はヤマタノオロチ伝説の斐伊川の上流の支流で、大馬樹川(おおまきがわ)の上流にあります。
鬼の舌震は黒雲母花崗岩地帯で、大馬木川の急流が、長年にわたり浸食し、また節理や甌穴によって造られた約2㎞にわたるV字狭谷です。
河岸には切り立った絶壁、谷底には折り重なる巨岩と川の流れが生み出した侵食地形が特異な景観を作り出し、国の名勝・天然記念物に指定されています。
『出雲国風土記』にも記述のある神話の舞台です。


名前の由来は、かつてこの地には玉日姫という美しい女神が住んいました。その女神をワニが慕い、夜な夜な通ってきたにのだが、それを嫌った女神は巨岩で川をせき止めて阻んでしまった。
その後、ワニは一層激しく姫を恋い慕い、「ワニが慕った」が転じて『鬼の舌震』という名前になりました。
という説がありますが、筆者が聞き及んだところによりますとこの切り立った岩があまりにも高いので流石の鬼も舌が震えるほど怖かったというところからこの名がついたという事です。
どちらが本当なのかわ判りませんが、かなり川底までは急流でもありますし高所恐怖症の方はお気を付け下さい。
2013年に高さ45m、長さ160mの「舌震“恋”吊り橋」とバリアフリー遊歩道が全開通しました。宇根駐車場から下高尾駐車場まで全道がバリアフリー化され、車いすでも奇勝を見る事ができるようになりました。


●場所 
奥出雲町三成~高尾
●問い合わせ先
奥出雲観光協会
●TEL (0854)54-2260


●アクセス JR木次線三成駅から車で10分



いづれは「アヤメ」か「カキツバタ」の違いをご存知ですか?

2019年04月16日 14:42   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今年のGWは10日間となが~く、どうして過ごしたらいいかとお悩みではないでしょうか?
そんな方に姫逃池のカキツバタ(大田市)をご紹介します。
三瓶山北の原、三瓶自然館の裏側の草原にある伝説の池です。
島根県の天然記念物で、特に浮島のカキツバタが有名です。
近年池の水位が下がりましたが、地元ボランティアの協力により美しい自然が守られています。
※詳しくは下記まで、お問い合わせ下さい。
アクセス | 島根県立三瓶自然館サヒメル
http://www.nature-sanbe.jp/sahimel/access.html


○見分け方
アヤメ 乾燥地の山野 紫色のみ 黄と紫の網目模様 幅が狭い(5mm?1cm)
カキツバタ 湿地のみ 紫(まれに白) 白又は淡黄色の細い斑紋 幅2?3cmで中心部が盛り上がらない
ノハナショウブ 湿地?乾燥地 赤紫色 黄色の細い斑紋 幅2?3cmで中心部が盛り上る
ハナショウブ 湿地 紫、白、絞り 黄色の細い斑紋 中心部が盛り上る
キショウブ 湿地 黄色 黄色の細い斑紋 幅2?3cmで中心部が盛り上る
注:一般に「ショウブ」と呼ばれているのは、園芸植物の「ハナショウブ」のことで、その原種で野山に見られるのが
「ノハナショウブ」です。「ショウブ」は、ガマの穂を小さくしたような花をつけるサトイモ科の植物で、紫の花は咲きません。


お問い合わせ先
自然環境課
島根県庁 自然環境課   〒690-8501   島根県松江市殿町128番地 東庁舎3階
Tel:0852-22-6172 (自然公園・歩道)  5348(整備)
0852-22-6516 (自然保護・動植物) 6377(自然公園許認可)
0852-22-5724 (隠岐ユネスコ世界ジオパーク・大山隠岐国立公園満喫プロジェクト)
Fax:0852-26-2142
E-mail:shizenkankyo@pref.shimane.lg.jp



松江市では、「茶の湯条例」が施行されました!

2019年04月09日 10:43   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。ここのところ続けて「不昧公」や「松江藩」についての話題です。
お茶の産地でもない松江でありながら、「お茶文化」がこのように普及しているのは「不昧公」無しでは語れません。このお殿様がもしもいなければ市民までも侵透する事はなかったでしょうね。
松江市では、不昧公200年祭では、松江に茶の湯文化の礎を築いた松平不昧公の功績の顕彰や茶の湯をはじめとした不昧公に関する記念事業を官民一体となって取り組んできました。
このような官民一体の気運をさらに高め、茶の湯の文化と産業を守り、育み、将来へ発展的につなげていくため、松江市は「松江市茶の湯条例」を制定し、4月1日より施行されました。
また、松江市茶の湯条例では、不昧公の命日である4月24日を「茶の湯の日」と定め、暦の中で気軽に抹茶や和菓子に触れる機会をつくり、茶の湯の文化と消費をひろげて未来へつなげていきたいと考えています。
今回の条例をきっかけとし、市民の皆様の日々の生活の中で、もっと身近に茶の湯を感じられるよう今後も官民一体となって取り組んでいきますので、よろしくお願いいたします。
※詳しくは下記URLをご覧下さい。
松江市:市政情報:松江市茶の湯条例について
http://www1.city.matsue.shimane.jp/shisei/keikaku/kankousinkoubu/chanoyu.html


【本件に関するお問い合わせ先】
松江市観光文化課
TEL 0852-55-5293



松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(後編)

2019年04月08日 13:14   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。前編の続きです。
当時の借財は、とても返済できる金額ではありません。
そこで借りた元金だけでも70年かけて返済する約束をとりつけます。商人はよくもまあ、納得?したものです。
つぎは藩内ですが、すべての個人・法人間での貸借契約を無効にするという大胆な法律を出し、一気にかたをつけてしまいました。
つぎは行政改革です。
まずは藩の支出を減らします。 支出の多かった江戸屋敷では無駄な贈り物を廃止しました。 ほか藩士約3000人中、968人が役職をはずれ役職給の支給を減らします。減給となった訳です。 また領地の村では大庄屋という農民の代表が世襲で決まっていました。 しかし彼らも人員入れ替えをして、まったく新しい農政を進めていったのです。
結果、田沼意次政権が転覆する原因となった天明の飢饉も、松江藩は蓄えを放出することで乗り切ることが出来たのでした。
後期、不昧公の時代は積極財政政策です。
江戸の中央では松平定信が失脚し、寛政改革が終了した3年後の寛政8(1796)年、松平不昧は満を持して親政を行います。
そのときの取り組みは父、松平宗衍(むねのぶ)の行った殖産興業政策を本格的に花開かせることでした。
 主には以下のような内容があげられます。
例えば、奥出雲のたたら製鉄の経営安定化や鍋釜の製作。
 木綿産業や古手と呼ばれる古着を北前船を通じて日本海沿岸地域へ輸出。
 ロウはぜを使ったロウソクの製造
 朝鮮人参を長崎経由で清国(今の中国)へ輸出
このように藩内の特産品を輸出することで、藩の収入を大幅にアップさせることに成功するのです。
この取り組みは松平不昧の死後も続き、改革がスタートしてから74年後。
天保12(1841)年に松江藩はとうとう借金をすべて返済することになるのです。



松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(前編)

2019年04月08日 13:04   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今回は、「松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!」という話題を前編後編に分けてご紹介します。
松平不昧は茶道に傾倒し、茶道にまつわる文化を育成することで文化都市・松江を築きあげました。
でも、じつは、松平不昧が松江藩主になったとき、藩の財政は火の車でした。 とても文化にお金を出せるような状況ではありませんでした。
松平不昧はいったいどのような取り組みを行なったことで、文化都市・松江を作り上げたのでしょうか?
松平不昧以前の松江藩は、どんなありさまだったのでしょうか?
松江藩は18万6千石。 結城秀康に始まる越前松平家系列の親藩です。
 しかし松平不昧のお父さん、宗衍(むねのぶ)の代には莫大な財政赤字を抱えていました。
そこで、宗衍(むねのぶ)は一念発起します。
延享3(1746)年に「御趣向の改革」とも「延享の改革」とも呼ばれる改革に取り組みます。
これまでの家老に任せる政治ではなく、藩主自身が取り組む改革を目指し、若手の小田切備中という人を抜擢します。 「趣向方」と呼ばれる改革派のチームを編成。
では具体的に御趣向の改革(延享の改革)とはどんな内容だったのでしょうか?
御趣向の改革(延享の改革)とは?
御趣向の改革(延享の改革)の内容は大きく3つです。
1、金融対策
 2、産業の育成
 3、教育の充実
金融に関しては、まずメインバンクの米子(鳥取県)商人はもう相手にしてくれなくなっていたので、大坂や尾道(岡山県)の商人から融資をしてもらいました。
 その資金を元手に藩営の銀行(泉府方といいます)を経営します。
また年貢を一括で先納すると、減税になる制度をつくり当座の資金を得ました。
それらの資金を使って、次にやったことは産業の育成です。
まずは商品作物の普及。
 木綿や煙草、はぜ蝋、朝鮮人参などです。
そしてはぜ蝋をつかった和ろうそくの製造。
たたら製鉄の生産・流通の管理。
 また、その鉄をただ輸出するのでなく、鍋釜を製造するようにしました。
教育については藩校の文明館を設置したのもこの頃です。
このように10年間、積極的に改革に取り組みますが「御趣向の改革」は残念ながら、宝暦期に挫折してしまいます。
改革失敗の3つのポイント
まずは財政赤字にも関わらず、産業に投資し続けたことで金融不安が発生したこと。
そして宝暦の飢饉への対応。
宝暦10(1760)年に比叡山延暦寺の修復工事を幕府から命じられたこと。
この3つの理由から財政は回復することなく、宗衍(むねのぶ)は以後5年間、病気を理由に5年間江戸に居続けることになります。
この時期、病気を理由に参勤交代をしない大名がでてきていました。勿論、参勤交代をすれば多額の費用がただでさえ苦しい財政なのですから・・・。そして結局36歳で隠居、松平不昧に家督を譲ることになるのです。
後編に続きます。