松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

日本人の旅の始まりはお蔭参りでした!  

2022年09月06日 12:01   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
何だか一気に季節が進んだようで、蝉の音が聞こえなくなった松江市です。
このまま秋に突入するのでしょうか?
さて、人は老若男女また、身体に障がいがあろうとなかろうと、人は、金銭欲・食欲・性欲・旅欲など人それぞれで、
各欲の大小はあれそれを達成?すべく生きていますね。 
今日は、その中でも旅欲についての話題です。 
少し調べてみると、一般庶民の旅の始まりは、江戸時代からのようです。
しかし、当時は関所が置かれたり、そもそもは藩外へは出られない事となっていましたね。
参勤交代の藩士や僧侶など著名な人は藩から通行手形を発行してもらい関所を通っていました。 
参勤交代の制度のおかげで道路網が整い、一里塚ができ、宿場が整えられていきます。
人々は自分の生まれた土地から一生出ることはできませんでしたが、ひとつだけ許される場合がありました。
それがお伊勢参りなどの寺社詣と、病気やケガ治療のための湯治旅です。 
温泉に関して言えば、この時代は温泉に関する研究も進んでいます。
医学の発達とともに温泉は宗教としての意味合いを薄くしていきます。 
このころに出された書物として「一本堂薬選続編」(1738)があります。
温泉の効用について詳しく書かれています。 
話を戻します。 
寺社詣のためなら、誰でも旅に出てもよいとはいっても、旅に出るには多くのお金を用意しなくてはなりません。 
ところが、武士や大商人だけでなく、年貢を搾り取られていたはずの農民たちも相当数旅に出ていました。 
それでは一体、どれくらいの人たちが旅に出ていたかといいますと・・・
伊勢神宮にはこの時代、多くの人(推定年間100万人)がお参りをしていたのですが、
大体60年に1回くらいの周期で伊勢神宮に全国から津波のように人が押し寄せたようです。
ぬけ参り・おかげ参りと言います。 
記録によるとその数、年間200万から300万もいたそうです。 
大商人や武士ならいざ知らす、庶民たちは旅費など工面できるはずもなく、実際のところ何も持たずに家人にも告げず、
熱病にかかったように突然旅出っていったそうです。 
彼らは集団を作り、白衣に菅笠でのぼりや万灯を押し立てて、
「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩いたので、ひと目でそれと分かります。 
お金に困れば道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。
(それでおかげ参りと呼ばれるようになったんだそうです) 
また、「講」を作ってみんなでお金を出し合って順番にそのお金を持って旅に出るということもしていたようです。 
このようにしていったん旅に出てしまうと、お伊勢参りを口実に、京、大阪見物をしたり、名所旧跡めぐりなど、
自由な旅を楽しむことができたのです。 
各藩は湯治のために温泉の整備を進めていましたが、庶民でも許可をもらって入るこ
とができるようになってきたため、 温泉につかってのんびりと過ごす人も大勢いたそうです。 
人々を日常のあらゆる拘束から解き放った寺社参りの旅は、こうして観光・娯楽の色合いを強めていったのです。
旅の盛んなこの時代には、旅のガイドブックのようなものもいくつか出ていたようですね。
また、旅行会社のようなものもあったそうです。宿泊の宿にその看板を掲げて、いたとも聞いています。 
現代、移動時間も短く情報過多の時代とは想像もつかないところではありますが、
それだけ、未知の楽しみに期待するのは旅欲の原点ですね。 




出雲人にとって気になる「いつから「出雲」だったのか」? 

2022年08月25日 10:40   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
8月も下旬となり、少しづつではありますが、秋の足音が聞こえ出した松江市です。
もう、35℃超えの猛暑日はないかなあ!
さて、「出雲」はいつから「出雲」だったのでしょうか?地元に住んでいても気にす
る人は少ないと思いますがそこはそこで気にする私です。
実は相当前から「出雲」と呼ばれていたらしいのです。相当とは古代のずっと昔とい
う事です。日本でまだ文字らしい文字が浸透していない時代のことで、はっきりした
ことは分からないというのが答えなんですが、、、。
出雲の遺跡である荒神谷や加茂岩倉の両遺跡から出た大量の青銅器を目の当たりにす
れば、弥生時代にかなりの力を持った勢力がいたことは、誰でも想像はつきます。た
だしそれを「出雲」と呼んでいいのかは、別の話です。
その青銅器群が並ぶ出雲市の古代出雲歴史博物館で、面白い企画展が開催されていま
す。そのテーマは、「古墳は語る 古代出雲誕生」です。島根県東部としての「出雲
」の枠組みができる過程を、考古学の立場から丁寧に追ッています。古墳時代後期の
6世紀。巨大な前方後方墳をまつった現在の松江市周辺と、ヤマト伝来の前方後円墳
を築いた出雲市周辺の二大勢力が、徐々に一つの「出雲」になっていきます。会場で
はその過程を遺物の特徴などからひもといています。宍道湖を挟んだ東西の地の競争
が1500年前にも垣間見えるのは、非常に興味深いところです。
倉吉市で出土した出雲式の子持ち壷(つぼ)や、米子市淀江町で見つかった入れ墨の
ある武人のはにわなど、鳥取県の遺物も数多いですね。また、大国主命の奥さんは沢
山いたのも周知するところですが、西は福岡県から東は新潟県までいたといいます。
日本海側はほとんどが出雲の国の勢力下だったとも考えられるのです。古代出雲は、
島根県東部に限られたブランドではないのかもしれませんね。まして出雲国と伯耆国
など同じ国のようなものだったのかもしれません。
こんな事に興味があるのは私だけでしょうか・・・。




夏は花火の風景はやっぱりいいですね! 

2022年08月18日 10:03   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
花火の季節がやって来たという感じですね。
一般的には、夏祭りとセットで行われるのが多い気がします。
松江市・宍道湖周辺の夜空を花火で彩る恒例行事「松江水郷祭」が8月6・7日、3年ぶりに開かれ、
待ち望んだ地元住民らは湖上に映える約1万3500発の大輪に酔いしれました。
新型コロナウイルスの影響で2020年、21年は中止となりましたが、
今年は感染対策として、屋台やイベントステージを設けないことで実施が決まりました。
午後8時頃から打ち上げがスタートしました。
湖に集う八百万(やおよろず)の神をテーマにした花火が次々と上がると、観客から大きな拍手が聞こえました。
我が家は、宍道湖沿いですので、2階のバルコニーから見物しました。
夜空を彩る大輪の花は老若男女から人気があり、魅了します。
私の子どもの頃の打ち上げ花火の体験といえば、月山富田城のある安来市広瀬町の愛宕神社で毎年7月21日、
夏祭りに打ち上げられる花火です。
知る人ぞ知るという事なんですが・・・。
松江水郷祭などに比べれば一つ一つは小さく、数分に一発と穏やかなものでしたが、
子どもの私には、距離が近かったので迫力は負けていなかったような気がします。
もう50年くらい前のことです。
水郷祭で宍道湖上に咲く大輪は最も大きなもので直径300メートルもあります。
今では、ハートや星などユニークな形の花火は平面に広がるため、
見る角度によっては意図した図柄に見えない場合もありますね。
打ち上げる側も気が気じゃないそうです。
それとは真逆に華やかな打ち上げ花火と対照的なのは、「てぼたん」の愛称で親しんでいた線香花火です。
手元で火花がボタンの花のように飛び交い、最後は火の玉となって落ちる姿は美しくはかないものです。
こちらも捨てがたい魅力がります。
これから各地で催される花火大会は、夏の一大イベントですね。
やっぱり、イカ焼き、かき氷、リンゴ飴、金魚すくいなど屋台やステージでの各種催し物がないと寂しい気がしますが、
勿論、中止よりいいです。



出雲大社よりずっと古い神魂(かもす)神社はパワースポットなんですよ!

2022年08月02日 13:52   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。

今回は、出雲大社よりずっと古い神魂(かもす)神社の紹介をします。
松江市民の中では、通称"大庭の大宮さん"の名で親しまれている神社です。
前述しました古代出雲の国鳥があった中心地近くの「八雲立つ風土記の丘」資料館から徒歩約10分でこの社に着きます。
松江市の中心地から東南方向に路線バスで約20分、丘陵地に広がる古社が鎮座する松江市大庭(おおば)待ちがあります。
この「大庭」という地名は神様の祭りごとをする場所のことだそうです。
その大庭町に神の魂の神社と書いて神魂(かもす)神社と呼ぶ非常に古い社があります。
「カモス」と読むのは珍しいですが、一説によると神霊の鎮まり坐す所の「神坐所」(かみますどころ)がカンマスになり、
さらにカモスとなったと言われています。
イザナミノミコトを主祭神として祭る神社で、現在の島根県東部地方の意宇六社(おうろくしゃ)の
一つに数えられている格式の高い神社です。
ちなみに、意宇六社とは、かっての意宇郡(おうのこおり、現在の松江市、安来市)に鎮座する神社のうち、
熊野大社、真名井神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社、揖屋神社の6社を指し、
この6社を巡礼する事を「六社参り」と呼んでいます。
それでは、前置きはこのあたりで、参拝することにします。
神社の鳥い正面に「神魂神社」と彫った古い碑が建っています。
鳥居の先には、ゆっくりとした勾配の石畳の参道が続いています。
御手洗(みたらし)の所で参道は二手に分かれます。
そのまま真っ直ぐ進む参道は女坂で傾斜が少ない参道です。
しかし、左手の男坂は急勾配の階段を登ります。
暑い季節ともなれば、石段の上からスーっと冷気(霊気)が降りて来るのを感じます。
男坂の石段を登り切ると、目の前に神社の社殿が聳えています。
緩やかな坂道は、健常者の方はお断りしているそうですので、お気をつけ下さい。
石段を登ると田舎の小学校の校庭位の広さの境内に着きます。
境内は、厳かな雰囲気の木々が世間を隔離するように立ち並んでいます。
一見して、歴史的にも価値がありそうな建物で、威圧感があたりに漂よっているのを感じます。
あっ、そうそう、本殿は国宝に指定されています。
その他の建築物も重要文化財に指定されています。
何が国宝かというと、この本殿は、天正11年(1583年)に建てられた現存する最古の大社造りなのです。
最初に建立されたのは、古いはずです。
この神社を造ったのはアメノホヒモミコト(天穂日命)とされています。
オオクニヌシノミコトを出雲大社祭祀するように命じられた、あのアメノホヒノミコトです。
アマテラスオオミカミの第二子とされるこの神はこの地に天降ると、
出雲の守護神としてイザナミノミコトを祀りました。
それがこの神魂神社の始まりであるといわれています。
何が言いたいかというと、出雲大社よりずっと古いということです。
神魂神社の大社造は、規模において出雲大社よりはるかに小さいですが、
その他に屋根の上の千木(ちぎ)の形態に大きな違いがあります。
その先端の切り口が垂直(外削ぎ)になっている出雲大社に対し、
この神魂神社では水平(内削ぎ)にカットされています。
ご祭神が男の神様なのか女の神様なのかで違うそうです。
本殿の向かって左側には貴布祢(きふね)社があります。
社殿が小さいのであまり目立ちませんが、桃山時代の建築様式です。
ある2間社流れ造りで、国の重要文化財に指定されています。
流れ造りそのものが出雲地方では珍しい社殿です。
また、社務所脇には、古い鉄釜が安置されています。
その昔、出雲国造の租神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)が
高天原から降臨された時乗ってきたと伝えられている釜です。
神様は、UFOの乗り物で下界に降りて来られた訳です。
よくよく考えると神様は、色々な超能力(?)を発揮されて国づくりなどをされた訳ですので、
もしかしたら、宇宙人だったのかもしれませんね。
神社建築にご興味のあるかたには、必見の神社です。
また、伊弉冊大神と伊弉諾大神という夫婦の神が祀られていることから、縁結びを願う人も多いようです。
神魂神社周辺の「六社参り」をすれば両園に出逢う事間違いないと筆者は、考えます。
本殿にお参りをして社を後にすることにします。

写真を添付します。神魂(かもす)神社の写真です。



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松江市東出雲町の死者の入口「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は神話 のルーツかも?!   

2022年07月26日 11:24   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
今日は、幽霊の日のようですね。
江戸時代に四谷怪談が初めてお芝居された日のようです。
夏には怪談がつきものですが、これには理由があって、
有名な役者はお盆の頃はお休みしていて、2流の役者しか残っていなかったようです。
幽霊の化粧をすれば、すこしくらいはごまかせたそうです。
今回は、巨岩神話なのですが、神話の中の神話また、「島根」の名前のルーツではないかと言われています。
少し不気味な神話です。
「黄泉」とはむろん死者の世界のことです。そこは、「黄泉比良坂」と言います。
聖書の中では、「黄泉」は死者が裁きを待つまでの中間の場所とされています。
『古事記』の中の「黄泉國」は、あの世との境界線とされます。
言わば死者の世界の入口なのです。
これは、見てはいけないものを見てしまった夫の神話伝説です。
それでは現地に行ってみることにします。
松江市揖屋町の住宅地に小さな標識「黄泉比良坂徒歩3分」と看板があります。
標識に従って進むと、緩やかな上り坂となります。
そこは、人が通った気配のない薄暗い山道です。
しばらく歩くと、今度は下り坂になり、その地が現れます。
そこには石柱が2本、まるで鳥居のように建って出迎えてくれました。
2本の石柱には細いしめ縄が結ばれ、結界を示しているようです。
ここを潜ると死の世界だと言わんばかりです。
石柱の先には、石組みの台座の上に石碑が鎮座しています。
長い歳月、風雨にさらされた姿です。
気味が悪い雰囲気がプンプンしています。
さらに、裏山の茂みの陰に2つの大きな石が置かれています。
ここで写真を撮ると、心霊写真になる場合が多いそうです。
ここで、『古事記』や『日本書紀』に残された黄泉比良坂伝説を記しておきす。
登場人物は男神イザナギと女神イザナミです。
『イザナギは亡くなった最愛の妻イザナミに逢いたくて跡を追い、死者の国である黄泉に行った。
イザナギが妻を呼ぶと、
「わたしも帰りたいと思います。黄泉の国の神に相談しますので、その間は決してわたしの姿を見ないでください」
と言って、消えてしまった。
イザナギは待てども返事がないので、しびれを切らして辺りを見てしまった。
そこには体にウジ虫がわき、ふた目と見られぬ妻の姿があった。
「あなたは、わたしに恥をかかせましたね」と怒ったイザナミ。
恐ろしくなって逃げるイザナギをイザナミが追いかけてきた。
そこで、イザナギは黄泉比良坂にあった大きな岩で道をふさいでしまった。』

2つの大きな石の謎はどうなんでしょう。
神話からすると、黄泉比良坂にあった2つの大きな石が死者の国を塞いだ岩なのでしょうか。
あの下に、死者の世界に通じる穴があるのでしょうか。
岩を動かしてみた人は未だいないようですので、不明?です。
じつは、この神話には続きがあります。
黄泉の国から帰ったイザナギはけがれを落とすためにある泉でみそぎをします。
その時、その左目から生まれた神が天照大神(あまてらすおおみのかみ)、
右目から生まれたのが月読命(つくよみのみこと)、鼻から生まれたのが須佐之男命(すさのおのみこと)。
神話の世界で有名な「三貴子」です。
後に承知の通り、須佐之男命は出雲神話で大活躍します。
要するに、黄泉比良坂は神話のルーツとも言えるという訳です。
それゆえ、黄泉の国を“根の国”とする説もあり、これが「島根」の地名の由来になったとも言われています。
神話は奥が深く読み込めば読み込むほどに引き込まれますね。
興味のある方は、神話の世界からある心霊スポットに一度おいでてみたら何かぞくぞくする気分になるかもしれませんよ。

写真を3枚添付します。
1枚目は、「黄泉比良坂」の石柱と石碑の写真です。
2枚目は、死者の世界の入口を塞いでいる岩の写真です。


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