ハウル@矢野です。
今回は、「日本の刀剣は奥出雲のたたらから」というお話です。
皆さんは「たたら」ってご存知ですか?
「たたら」とは、鉄を生産する技術のことなんです。
鉄の生産は、古代より日本全国で行われていました。
特に中国山地の山には、砂鉄が多く含まれていることや木炭の生産をする炭焼きが盛んだったことなどの条件が整っていた為に、盛んに行われました。
まして江戸時代に入ると、松江藩が産業として奨励したこともあり、田部家、糸原家、桜井家が中心となり生産されました。
「もののけ姫」の作品中には「たたら製鉄」が題材として取り上げられました。これは、特に奥出雲地方をモデルにしているともいわれています。
この製鉄法を簡単に紹介すると、次のようになります。
粘土で造った炉(ろ)に砂鉄と木炭を交互に装入して、吹子(ふいご)で風を送り木炭を燃焼させて砂鉄を溶解・還元して鋼(はがね)を作る日本古来の製鉄技術です。
「たたら製鉄」は、現在の製鉄技法と違って、低い温度で精錬するため、非常に純度の高い鋼(はがね)を造ることの出来る製鉄法です。
火を入れてから三日三晩をかけて操業されます。
鉄の硬さは、そのとき含まれる「炭素(たんそ)」の量で違うそうです。
そして、生産された鉄の塊(かたまり)は鉧(けら)と呼ばれています。
その中心部にあるの「玉鋼(たまはがね)」と呼ばれる純度の高い鋼が含まれていて、これを原料として日本刀などが作られるんです。
現在では、財団法人日本美術刀剣保存協会が、ここ奥出雲町にある鳥上木炭銑工場で毎年冬操業されるだけとなりました。
そんな、歴史深い「たたら」の魅力を展示しているのが
安来市、雲南市、奥出雲町の2市1町の共同プロジェクト「鉄の道文化圏」の
展示施設の一つ「奥出雲たたらと刀剣館」です。
ここでは、たたら操業を判りやすく展示してあります。
「本場」と呼ばれる鍛冶職人の作業風景をジオラマを使って展示してあり、当時の様子が伺えます。
また、メインの「たたら炉」のレプリカは、「たたら炉」の秘密を実物大で展示してあり大迫力です。
一番の特徴は、炉の地下構造を忠実に再現してあることなのです。
たたら製鉄で重要なのは、湿気を防ぐことと保温性を高めることだそうです。
舟形の粘土の炉は崩され、重さ2.5~3tに成長した鉧(けら)が取り出されます。
この中から約1tの純度の高い「玉鋼」が取れるそうです。
こうして、造られた玉鋼は、全国の刀匠に配られ、日本刀の原料として使われるのです。
奥出雲には、神話から実際の産業まで話題が豊富です。またの機会にもう少し他の話題も掘り下げてみたいものです。
ハウル@矢野です。
新年あけましておめでとうございます。
旧年は、ブログをお読み頂、有難う御座います。今年も宜しくお願いします。
全国、北は北海道から南は沖縄まで行われている「とんど祭り」のご紹介です。
全国と前述しましたが、近くは、韓国、北欧のスウェーデンでも行われているとの報告もあります。
こちら、松江市美保関町片江地区で毎年、1月、左義長行事(竹を立てて、門松・しめ縄・書き初めなどを焼き、その日で餅を焼いて食べ、無病息災を祈る)と同時に行われる祭りがあります。
片江地区は、かつては、船団を組んで遠くは大陸地殻まで出漁した本拠地として栄えていました。
そのような勇壮な海の人々による小正月を中心とした約250年も続く頭屋行事です。
無病息災、大漁を祈願し、また墨を付けられると1年間は風邪などひかず、海難にも遭わぬと云われており、根強い信仰をもたれています。
祭りで使われる墨は以前は風呂場やかまどの煤を集めて水や御神酒で練ったものであったようですが、最近では、木炭の粉末や墨汁に代わってきたそうです。
この墨は多く付くほど御利益があるとされるのは、全国共通ですね。
祭りの流れは、こうです。二日間行われます。
前日、海の潮と藻で禊ぎをした頭屋は、酒と米を供えた後、2本の孟宗竹を切って、神木(竹)迎えを行います。
神木は上方を横竹で結び、先端に御幣、扇、掛け鯛(1メートル程の紙で作ったもの)を飾り、横竹の両端には米と大豆を入れた袋を各々つるします。
米と大豆は祭りの後の田植え儀礼の早稲植え、代満てに使われます。
いよいよ翌日は、県内外の人にも評判の宮練り(墨付け)があり、大盛り上がりとなります。
頭屋が参加者全員を海の潮と藻で清めた後、各地区の御輿、獅子頭、囃し方、正月の正装をした子供たちの順で、長い行列が各地区を練り歩きます。
御輿を担ぐ者の顔には、当然に墨が塗られていますが、一番の呼びものは、それを更に盛り上げるように、練り歩く間に各家の主婦が墨を持ち出して通行人にもつけて回ることです。
行列の人々、通行人、見物客にも御神酒が振る舞われ、海辺の人々の闊達な雰囲気が辺りに充満し、とんど祭りは大盛況となります。
何も知らずにこの地区を通りがかった人は可哀そうです。なにせ誰であっても容赦はしません。警備の警察官やタクシーやバスの運転手さんはもとより乗客まで顔にぬられます。
最後は男衆が御輿を担いだまま海の中へ入ります。
浜に戻ると家を新築した者、新婚の者、親當(世話役)たちが次々と海へ投げ入れられます。
この光景は、よくNHKで放送されます。特に神魂さんの夫が海に投げられるのを手をたたいて大喜びの妻の顔がアップになります。
最後はとんど焼きです。
各家のしめ縄は全て集められ、神木と共に神のおいでになる天へと舞い上がります。
このとんどの火で頭屋が搗いた3斗の餅が焼かれ、この1年間の無病息災を願って各家に配られるのです。
海難厄除けと五穀豊穣と家内安全・・・など多くを祈念する訳ですからこれだけ盛大になります。
1月の子正月ころに観光の予定のある方は、お気を付け下さい。
ハウル@矢野です。今年もあと2日となりました。年末年始は、冬将軍が居座られるそうです。
初詣で風邪をひかないようにお気を付け下さい。
今回は、島根のお雑煮の紹介です。
お雑煮ほど、地域の特色が出るお料理はないですね。
島根県も東西に長いですから、細かく言うと多彩な具が入るようです。
共通なのは、平たい丸餅くらいでしょうか。
こちらは、出雲地方ですが、石見地方では、ブリ、アユ、ハマグリ、黒豆など、地域によりお雑煮の主役はいろいろです。
全国のお雑煮には、味噌味(白みそ、赤みそ)だったり、小豆汁だったりです。
お餅は、角餅だったり、焼いて入れてみたり、様々です。
具材も、たくさん野菜をぶち込んであったり、シャケやら、ブリやらが入ったりと本当に様々ですね。
我が出雲地方のお雑煮は、全国一シンプルと言ってもいいと思うほど何も入れません。
かつお節で出汁をとった醤油味のお汁に丸餅を入れ、市販のもち海苔をほぐして浮かべるだけです。
え?それだけ!?と思われるでしょうが、このもち海苔が白いお餅と絡んでとてもシンプルで美味なのです。
この海苔のグレードで、味わいが天ト地ほど違ってくるのです。出
雲市平田地区は十六島(うっぷるい)産の特上「十六島海苔(うっぷるいのり)」(3000円/80g?)があれば、最高級なお雑煮となります。
「十六島海苔(うっぷるいのり)」は江戸時代から珍重されてきた極上最高級の岩海苔で、
この海苔は、12月から1月の限られた期間に、冬の荒れ狂う日本海の足場の悪い岩場で一枚一枚摘み取られるのです。
日本酒で軽くほぐしてから雑煮に浮かべれば、ふわりと広がる磯の香り、1本1本の繊維がしっかりと絡み合う歯応えは一般のもち海苔とは比較になりません。
そして、2日には、小豆雑煮をいただきます。
出雲地方でも、松江市や出雲市平田地区のあたりでは小豆雑煮を食べます。
今では甘いぜんざいの家が多いですが、本来の小豆雑煮は甘くないものなのです。
柔らかくゆでた餅を塩味のすまし汁に入れて煮小豆をのせ、かつては「ハレ」の日の貴重なごちそうであった砂糖をその上にかけて食べるのです。
まるでおしるこのお雑煮なのです。
今度のお正月には地域の味を再確認してみてはいかがでしょうか。
ハウル@矢野です。
クリスマスも終わり、いよいよ年越しに向けて気が焦るところとなりました。
今回は、美保神社の周辺の観光スポットの一部紹介をします。
美保関は美保神社の門前町として繁盛した町ですが、美保神社から仏谷寺に至る青石畳は江戸時代の参拝道の遺構です。
美保神社の鳥居をくぐり右に曲がると石畳の通りがあり、150mほど行って左に曲
がり100m行くと仏谷寺に着きます。
神社前の通りには越前石が使われ、本通りには周辺の海岸から運ばれた緑色凝灰岩が敷かれていますが、形は正方形に近いものから長方形などさまざまです。
この青石畳通りが以前の本通りで、参拝客相手の旅館やみやげ物屋で賑わった通りです。
その当時の面影を残す古い町並みと石畳の道が落ち着いた雰囲気をかもし出していて、何ともノスタルジックな気分にさせられます。
この周辺の散策は、食いしん坊の人には、耐えられないいい匂いが漂います。
美保の関名物の食べ物と言えば何といってもイカ焼き、イカの一夜干しです。
他にもサザエのつぼ焼き、ゆでたての松葉ガニ・・・など海の恵みの美保関名物は、数えあげたらきりがありません。
この通りの屋台で食べるもよし、お土産に買うもよし、宿でゆっくり味わうもよしです。
「烏賊の味忘れで帰る美保の関」と高浜虚子も俳句に詠んだその味は、一度食べたら忘れられないおいしさです。
また、しょうゆアイスなど新名物もぞくぞくです。
ここで仏谷寺 (ぶっこくじ)について説明しておきます。
門を入って右手の大日堂(だいにちどう)には、5体の仏像(重文)が安置されています。
薬師如来坐像を真中に、聖観音立像3体と、菩薩形立像1体が並んでいます。
いずれも平安初期の一木(いちぼく)彫で、出雲様式といわれる素朴でダイナミックな地方色豊かな仏像です。
これだけの重文仏像群が、地方の小寺院に現存するのは注目すべきですが、このことは、仏谷寺の前身が相当大規模な寺院であったことを物語っているそうです。
そういうことで、 三明院は隠岐へ流された2人の天皇の風待ちの御座所にもなった訳です。
承久3年(1221)7月27日、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、出雲大浜浦(美保関)に着かれ、しばらく逗留されたが、そのときの宿が三明院だと伝えられています。
それから約100年後、元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇もまた倒幕に失敗して隠岐配流となりました。
もう一つ、「関乃五本松節」の由来についてです。
江戸時代、「西回り航路」の発達により山陰第一の要港美保関は北前船をはじめとする大小の船舶が往来し大変にぎわっていました。
長い航海を経て、美保関に入津する船は、海上に島根半島の影が現れると、西側入り江近くの小高い山にそびえ立つ五本の黒松を目当てにしておりました。
江戸時代、松江藩主は、美保神社に月参りかたがた関所及び施設の巡視を行いました。その際、路面が狭いことや眺望が遮られるという理由で、五本の松のうち一本を切らせてしまったのです。
船人達は藩主の横暴さに怒りを感じておりましたが、表だって抗議することもかなわず、ふたたびこのような暴挙がなされぬ事を願うばかりでした。
民謡「関乃五本松節」は船人達のやり場のない気持ちから自然とほとばしり出た唄だといわれています。
横暴な藩主への痛烈な批判とともに、せめて残りの松は夫婦松として末永く栄えるようにと祈りを込めて歌われたものと伝えられています。
毎年10月には、正調関乃五本松節 全国優勝大会が開催され、唄、太鼓、絃、踊りの4部門で日頃の練習の成果が競われます。
また、美保湾に面した旅館に宿泊された人は、朝早く漁港を散策されると朝捕れたばかりの魚類が市場でセリにかけられる場面に出会う事が出来ます。運が良ければ漁師さんにおすそ分けがいただけるかもしれませんよ。
他にも観光スポットは多くありますが、今回は、このあたりで失礼します。
プロジェクトゆうあいのスタッフが取材にこの地を訪れた時の写真を2枚添付します。
1枚目は、青石畳通りの写真です。
2枚目は、スタッフがおいしそうにイカを食べているところです。
ハウル@矢野です。今冬最強の冬将軍が日本列島を荒れ模様にしています。
12月に今年のような大雪は珍しいそうです。被害に会われた方には、心よりお見舞い申し上げます。
今回は、「美保神社はえびす様の総本宮」の紹介をします。
美保神社は、島根半島の北東、松江市美保関(みほのせき)町にあります。民謡「関の五本松」でご存じの方もおられるのではないでしょうか。
また、日本最古の石造りの灯台も有名です。そんな海の関署と言われるところです。
事代主神系えびす社3千余社の総本社です(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)です。
特に水産・海運・商業に携わる人々から広く信仰されてきました。
えびす様は右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える御姿で親しまれています。
魚釣りを好まれ、「漁業の祖神」として崇敬されてきたのは、事代主神が美保の地(沖ノ御前・地ノ御前と云われ美保神社の飛地境内)において日本の文献上、最初に魚釣りをされたことが所以です。
七福神の宝船にお乗りのえびす様は、こちらの神様です。
二つ目は、拍手(手打ち・手締め)の起源です。
『古事記』の「国譲り神話」に記述されています。
出雲国を譲るように言われた大国主神(おおくにぬしのかみ)は、御子神の事代主神にその返答を委ねます。事代主神は「畏(かしこ)し、この国は天つ神に奉り給え」と直ちに了承し、「天逆手(あめのむかえで)」を拍ったとあります。
これが、現在の手打ち・手締めの起源であり、拍手を打って約束を交わすという意味で、商談がまとまった際や建設現場での竣工式などで用いられる一本締めや三本締めもこれにあたります。
えびす様を「商売繁盛の神さま」と崇敬する所以のひとつでもあります。
三つ目は、歌舞音曲(音楽)の神様です。
多くの船舶が停泊する美保関港「関の明神さんは鳴り物好き、凪(なぎ)と荒れとの知らせある」と、船人の口から口へと広く伝えられました。
美保関は古くより海上交通の関所で北前船をはじめ諸国の船が往来し、風待ちの港として栄えた場所です。
船人の美保神社に対する信仰心は非常に篤く、海上安全や諸願成就などの祈願の為、さまざまな地域から夥しい数の楽器が奉納され、この内846点が国の重要有形民俗文化財に指定されています。
直径157cmの大鼕直径157cmの大鼕846点の奉納鳴物のなかには、日本最古のオルゴールやアコーディオン、島原の乱で戦陣に出されたと伝わる陣太鼓、初代荻江露友が所有していた三味線、鳥取城で登城の時を告げていた直径157cmにもなる大鼕など名器や珍品も数多く含まれております。
平成4年には明治の初頭以来途絶えていた「歌舞音曲奉納」を100年ぶりに復活させ、一流の演奏家が神前に向かって(聴衆に背を向けて)演奏し、聴衆は一切の拍手をしないという独特の音楽祭が行われています。
以上、今回は、少しお堅い話でした。
次回は、美保神社周辺のスポットの話題です。