松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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小泉八雲(へるんさん)ってこんな人だったのです!

2021年10月06日 15:22   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江のハダル@矢野です。10月に入ったのに真夏のような松江市です。
コロナウイルス感染防止の緊急事態宣言が先月末で終了し、
最初の土、日では、観光客もどっと押し寄せた模様です。
みんな、相当に我慢していたのでしょうね。
まだ完全にコロナウイルスが死滅した訳ではありませんので、
気をつけて過ごしたいと思います。
さて、今日はへるんさんのお話です。
小泉八雲(ラフカディオ ハーン)は、松江では「へるんさん」と呼ばれています。

松江に赴任した時の辞令書の名前が
「ラフカディオ ヘルン」と書かれていたそうです。
当時の島根県の役人も、相当の英語力だったと想像します。
だからこそ外国人の英語教師を招いたんですね。失礼しました。
八雲は、「へるん」が気に入りその後は、自分でもそう言っていたそうです。
「小泉八雲旧居」は少し前までは「ヘルン旧居」と呼ばれていました。
あと「へるんヨウカン」が思いつきます。
八雲が好んだようかんで、
東京へ行ってからも取り寄せるくらいだったそうです。
甘さ控えめのわりとさっぱり感があります。
また、晩酌はビール大びん1本だったそうで毎日女中さんが買いにこられていた。
とは、江戸時代から薬局をされているお店の方から伺いました。
当時は、ビールは薬局で売られていたのも驚きです。
ちなみに銘柄はアサヒです。
ところで、八雲は、旧制松江中学の英語教師として赴任しました。
その時の月給は、100円でした。
これは、県知事の次に高い月給でした。
その後、熊本の五高では、松江での倍学の200円でした。家賃は11円。
校長の年収が1800円だったそうですから、
八雲のほうが多くもらっていたわけです。
ちなみにその時の校長は、あの柔道の加納治五郎でした。
少しミスマッチな感じがします。
八雲は、松江でセツさんと結婚しましたが、実家に仕送りをしていたそうです。
給料が安いので、松江は住みやすかったが仕方なく転勤(?)という噂もあります。
やっぱり、へるんさんも背に腹はかえられなかったようです。
その後は、神戸を経て、東京大学では、450円の月給をもらっています。
とんとん拍子に出世したようです。
このようなお話を聞きながら、へるんようかんを味見したり、
松江をおちらと歩きをしています。
それにしてもガイドさんは、こぼれ話をよくご存じです。
あっ、そうそう、八雲は、子供のころに片目を失明しています。
また、もう片方も相当な弱視だったと言われています。
奥様のセツさんに文字に起こしてもらっていたようです。
だから、松江の朝の音に敏感だったのでしょうね。
米をつく音、松江大橋を渡る人の下駄の音、野菜売りの声など・・・。
このお話は次にしますね。

以下に「飴を買う女」を引用しておきます。ちょっと、ぞっとしますよ!
「飴を買う女」
中原町にある大雄寺の墓場にはこんな話がある。
中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。
水飴というのは、麦芽からつくった琥珀色の糖液で、
乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買いにくる。
飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、不審に思って、
親切にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、
女が墓場へ帰ってゆくので、飴屋は怖くなって家へ戻ってきました。
そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、
飴屋に自分と一緒に来てくれといって、しきりに手招きをする。
そこで飴屋は、友達と語らって女の後について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。
すると地面の下から、赤児のなき声が聞こえる。
それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には、
毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、そのそばに、
生きている赤児がひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。
そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。
この母親はまだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、
墓の中で赤児が生まれ、そのために、母親の幽霊が、
ああして水飴で子供を養っていたのである。
――母の愛は、死よりも強いのである。

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