松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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明治維新の危機にもこうして松江城は、生き残った!

2019年04月08日 11:38   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。先週末の6日には「松江武者行列」が好天にも恵まれて400年前にタイムスリップしたような、堂々とした入場風景に松江市民を始め、多くの観光客を魅了しました。観光客からは、近くから見ていると迫力満点で感動したとの声も聞かれました。
さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。まずは、当時の背景からです。
江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
 翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
 68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
 日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。
松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
 勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
 その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
国宝となったのも、この勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね!