松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江大橋と足軽源助

2014年11月17日 10:39   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。人身御供や人柱の逸話は、日本中にどこにでもある話ですが、こちら松江でも言い伝えられている秘話があります。
そもそも松江の市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川で南北に分かれており、「松江大橋」はその大橋川に架かる橋です。
松江市民にとっては、橋北と橋南を結ぶ大動脈でとても重要な橋です。
現在は、合計5つの橋がかかっていますが、江戸時代初期までは大橋川には「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れる竹の橋が一本あるだけでした。
その昔は、ヤマタノオロチで神話となっている斐伊川からの洪水で毎年のように橋は流されていたようです。
橋は、一時期は、流されてもいいような浮き橋だったとか聞いています。
松江開府の祖である堀尾吉晴れ公より松江城築城にあたり、馬や物資を運ぶ荷車が通れる強固な橋の建設が命じられました。
この橋の建設工事は洪水などで難渋を極めたため、川の神の怒りを静めるために、マチの無い袴(横縞の継ぎをした袴という説もある)をはいて、その日の朝一番に「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係も無い足軽の源助がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められました。
昔は、残酷な事をしたものですね。
このような経過を経て橋は慶長13年(1608年)に完成し、これが初代の松江大橋とされています。
その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、現在の橋は17代目の橋で、昭和12年(1937年)に完成したものです。
松江大橋の南詰めの「源助公園」には、橋の建設の「人柱」となり犠牲となった源助を供養する石碑があります。
大橋川の灯篭流しの時には、近くのお寺から源助像も公園に移動して、一緒に供養されるそうです。
このような秘話を聞けば、橋を渡る時には、橋の南詰にある石碑に手を合わさないといけないような気分にさせられますね。
松江市民であれば、源助を知らない人はいません。それほど市民は、感謝し、今でも供養は欠かしません。
現在では、松江大橋の上では、武者行列、大綱引き、どう行列、松江踊りなどどれをとっても松江を象徴するイベントには、なんとも絵になる光景となっています。
大橋川は、洪水災害のための護岸工事の計画がされています。数年後には、新しい大橋がお目に絵することになります。その時には、しっかりと源助像に安全祈願をして工事の施工に当たってほしいと願いたいものです。